ベルウッド
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クラシック音楽ファン:よい演奏会があると知れば遠征もいといません。オーディオシステムは、音楽そのものを楽しむのが本来というモットーのもとにコストパファーマンス重視で小ぶりな装置を目指します。正統オーデ…

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音(サウンド)と音楽(ミュージック) 原田英代ピアノ・リサイタル



とにかく音が大きい。

原田の《ロシア・ピアニズム》への期待が困惑に変わるのは“シャコンヌ”冒頭のテーマの一節が始まった刹那のことで、それは前半の“さすらい人幻想曲”の凄まじいフガートが尽きるまで続きました。

高価なオーディオセットで耳をつんざくような粗暴な大音量の爆音を聞かされた時の困惑とか、それを通り越した怒りとかある種の蔑みに近いような感覚です。小柄な原田から大きな音量を聴くことは私たちの期待でもあったのですが、その思慮を欠いたような過剰感に言葉を失いました。


それが後半では一変してしまいます。

“オーベルマンの谷”は、いままで聴いたリストのなかでも最も美しく艶やかで歌と情感の精妙さと起伏に富んだ演奏でしたし、もうひとつのラフマニノフでも、狂おしいまでの自己愛と自己嫌悪に苦悩し揺れ動く情念が最後の諦念に収束するまでの心理ドラマを見事に聴かせてくれたのです。そして美しい極上のアンコールの三曲。

どうして前半と後半とでこれほど変わってしまったのでしょうか。

前半は緊張していたから…?

特にこの日はNHKの収録が行われていてそのせいで気負いのようなものがあったのかもしれません。小さくて音がよく届くこのホールの特性が当初はよく飲み込めていなかったから…?その可能性も否定しきれません。果ては、スタッフが休憩時にアドバイスしたのではないか、そいういう憶測さえありました。私としては、ピアノ奏法技術が確立する以前の、バッハやシューベルトのような指使いを無視した理詰めでドイツ的な機械的リズムによる細かくて速いアルペジオやスケールの難関を克服したことを見せようという気負いがあまりにも強すぎたのではないかという気もします。

あるいは、そういう弾き分けを意図していたのかもしれません。

意図とまではいかなくとも曲目そのものに内在する本質とか性格のようなものがあって、あえて前半と後半のプログラムを構成していたのかもしれません。それが、まさにロシアン・ピアニズムの二面性として意識されていたのではないだろうか…?

いずれにしてもご本人に聴いてみなければわかりません。憶測の域を出ないのです。

確かに前半の2曲は、極めて技巧的でヴィルトゥオーソと呼ばれる表面的で身体的に華やかな超絶技巧をひけらかすピアニストが好んで取り上げてきた曲目です。1950年代後半に鉄のカーテンの陰からセンセーショナルに登場したロシアのピアニストたち、ギレリス、リヒテルなどのロシア人ピアニストの剛直なイメージに直結しています。それはベルマンに至って頂点に達します。それは俗悪で悪趣味な印象さえ残しました。

その意味で、特に“さすらい人幻想曲”は、正直言って聴いていて苦痛でした。

叩きつけるような強音の連続は弾き急ぐような印象ばかりで「ダン ダ ダ」というダクチュル音型のリズムの刻みのキレが悪くてかえって単調で退屈にさえ感じます。第二部のアダージョ、歌曲をテーマとする変奏曲ですら、つかの間の静音にほっとしただけで、第2変奏の後半からは音の高まりが収まることがありません。

私にとってはポリーニがこの曲の里親。



(このジャケットデザインは国内盤初出だけの独自のもの。オリジナルは、ドイツロマン派の画家カスパル・ダーヴィト・フリードリヒの「雲海の上の旅人」があしらわれています。)


ライナーノーツに黒田恭一氏が『最初の音をきいただけで、これまで耳になじんできたシューベルトとはあきらかにちがうシューベルト』と書いている通り、ウィーン的な主流とは違っていたのですが、うぶだった頃の私にとってはこのポリーニ盤が規範となってしまいました。それだけにこの日の原田の演奏はシューベルトを聴いた気がしないのです。決して音が混濁しているわけではないのですが、音符と音符の間が目詰まりしているような音なのです。

それでは、西側の世界、特に北米の音楽界を席巻していた当時のロシアのピアニストはどのように弾いていたのでしょうか。やはりこの日の原田と同じだったのでしょうか。



そういう思いでリヒテルを聴いてみました。ポリーニ盤のちょうど10年前、1963年のEMI録音。パリのサレ・ワグラムでの収録。残念ながらオリジナルLPは持っていなくて、「Yoshio Okazaki」というエンジニアによるいわゆる「Okazakiリマスター」盤です。

確かに、ポリーニとは対照的なマッチョな演奏に分類されると思えますが、原田の演奏よりもはるかに音楽的な、たおやかな流れがあって歌心も随所に現れるシューベルトです。この曲がシューベルトとしては異色の作品ではあっても、やっぱりシューベルトだと思わせる演奏ですし、ウィーン的正統に近いブレンデル盤よりもずっと現代に通ずる“さすらい人”です。アルペジオの上にはっきりと浮かび上がるメロディーや、延々と続くオクターブ奏法によるレガートも、単にその掌の大きさと手さばきの自由度に驚嘆させられるだけでなく、それがもたらす音色の深みに陶然とさせられるのです。ロシアン・ピアニズムの身体的・肉体的剛健さと色彩的で感覚的な繊細さという対照的な二面性は、だからといって手のひらを返すような対立的なものではないということを、すでにこの時期のリヒテルが示していたという感動がこみ上げてきます。

では、一曲目の“シャコンヌ”はどうだったのでしょうか。

“シャコンヌ”は、言うまでもなく無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番のシャコンヌをピアノ用に編曲したもので、そもそも超絶技巧のピアニストであったブゾーニが演奏旅行に携えるために自ら編曲した作品です。そういう技巧のひけらかしのための楽曲とみなされいるところがありました。ところが最近ではベテランでも取り上げることが多くなってきています。演奏解釈そのものにも、ある意味では最後の“コレルリ変奏曲”と対をなすような作曲者の個人的な激しい喪失感と懊悩に強く共感しそれをえぐり出すように表現しようという方向性が高まっているような気がします。


そういう違いとか時代の流れのようなことは、比較的近年の演奏を聴いてみてもよくわかります。聴いてみたCDはいずれもバッハのいわゆる《トランスクリプション》集のアルバム。



カール=アンドレアス・コリーはスイスの音楽一家に生まれたピアニスト。ルツェルンでミェチスワフ・ホルショフスキに師事。ホルショフスキは、ユダヤ系ポーランド人で、いうまでもなくあのカザルスの《ホワイトハウスコンサート》で伴奏者を務めたことで有名。いずれにせよロシア派とはあまりつながりがないのですが、このコリーの演奏が一番、今回の演奏に近いと感じます。2004年の録音で、購入した頃は解像度の高い優秀録音との触れ込みだったと思いますが、改めて聴いてみるとスケールの大きい実物大の音像と響きに驚嘆させられます。



ニコライ・デミジェンコは、グネーシン音楽学校からモスクワ音楽院、チャイコフスキー国際コンクール入賞と絵にに描いたようなロシアン・スクールのキャリアをたどったピアニストですが、スピーディで軽やかな指さばき、弱音の美しさにこそ本領があって、これこそがロシアン・ピアニズムのもう一つの側面なのだと思います。このアルバムは、私がファツィオリの音色を知った最初のCD。まさにフェラーリを思わせるようなスピード感と抜けるような吹き上がりや敏捷な運動性能を感じさせるバッハ。



エレーヌ・グリモーは、フレンチ・ピアニズムの異端児で、師ピエール・バルビゼによってパリ音楽院に推挙されてなお反抗的であることをやめず教室から出奔して故郷のエクサンプロヴァンスで学生オケを相手にラフマニノフの協奏曲を弾いていたというピアニスト。フランス人でありながらフランス近代ものはほとんど取り上げず、10代の頃からラフマニノフやスクリャービンなどに異様なまでに傾倒していました。このアルバムの重心は明らかに“シャコンヌ”にあって、技巧的なブゾーニの編曲に潜むポスト・ロマンチシズムの現代性と、バッハ音楽の楽器を選ばぬ深遠な普遍性、そしてグリモ-自身の激しいロマンチックな感情表現が熱い化学反応を起こしていて実に魅力的な“シャコンヌ”です。

この日は、GRFさん、Aionさん、エビネンコさんのお三方と一緒になりました。決して誘い合ったわけでもないのですが、《ロシアン・ピアニズム》に吸い寄せられるようにして会場に集まって顔を合わせることになりました。いずれも音のうるさがた。エビネンコさんだけはオーディオを趣味としているわけではありませんが、音楽と音に並々ならぬご関心と素晴らしい感性をお持ちなのです。



原田には、「ロシア・ピアニズムの贈り物」という名著があります。私自身は、身体的な問題(すなわち《音》)と音楽性とのいずれも欠くべからざる両面をバランスよく述べながらロシア・ピアニズムの本質を説いた好著と受け止めています。

けれども、この日の前半はあまりにも身体的な側面、すなわち、「小さな身体であっても大きな音は出せる」「短い指であっても超絶技巧曲は弾ける」ということを強調し過ぎたきらいがあります。GRFさんだけは、すでに原田の実演を聴いていて、さらには彼女のレクチャー・コンサートまでも体験済みなのですが、その内容もそういう身体の使い方が話しの中心だったようです。この日の演奏にそういう意図的なことがあったかどうかはわかりませんが、例えあったとしても、そのことが前半と後半とで分離・分割されてしまったために、かえって結果としてはわかりにくかったのではないでしょうか。

ピアノの名伯楽であったイシドール・フィリップの名言に「技術のない音楽性、音楽性のない技術は無意味である」というものがあります。この至言を痛感させられるようなコンサートでした。



原田英代 ピアノ・リサイタル 第1回 「さすらい」
2017年3月3日 19:00
東京・渋谷区富ヶ谷 白寿ホール
G列15番


原田英代(ピアノ)

J.S.バッハ=ブゾーニ:
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティー第2番 ニ短調 BWV.1004より “シャコンヌ”
シューベルト:幻想曲「さすらい人幻想曲」 ハ長調 D.760

リスト:巡礼の年 第1年「スイス」 S.160 より “オーベルマンの谷”
ラフマニノフ:コレルリの主題による変奏曲 op.42

(アンコール)
ラフマニノフ:プレリュード ト長調op.32-5
シューマン:「ウィーンの謝肉祭の道化」より 間奏曲 op.26-4 
チャイコフスキー:「四季」より6月「舟歌 」

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