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「音楽の捧げもの」

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2017年10月06日

バッハの作品のなかでも、これほど成立背景が明らかなものはないと言ってよいかもしれません。しかもこれは本人自身によって印刷され出版されています。

バッハの息子たちと直接書簡を交わしたフォルケルによる伝記だけでなく、当時の新聞でも、あるいは当時の宮廷音楽家たちの証言でも、その子細は明らかで齟齬がありません。

バッハは、より安定した地位への期待と息子と孫の顔みたさもあってベルリンを訪ねてみたいと考えていたようですが、それがバッハの後援者であったカイザーリンク伯爵の仲介でフリードリヒ大王の宮廷から招かれることになります。だからこそライプツィヒからの馬車での強行軍をいとわずはせ参じたのですが、そのバッハに大王は自身で当時最先端の鍵盤楽器フォルテピアノを弾いてテーマを示し、その場で即興のフーガを演奏することを命ずるのです。課題である三声のフーガを見事に弾いてみせて居合わせた人々の称賛を浴びます。続けて、翌日も大王はバッハを呼びつけて、さらに六声のフーガを所望するのです。さすがにバッハは大王の無理強いには応えられず、自身のテーマによるものを演奏し、大王のテーマによるフーガは後日届け出ると約します。

ライプツィヒに戻ったバッハはさっそく作曲にとりかかり、2ヶ月後には果たせなかった六声のフーガと、さらに同じ主題による他の曲と合わせて4分冊にとりまとめて印刷し大王に献呈するとともに100部だけ限定出版されることになりました。この印刷楽譜は、整備された良好な状態のままで現存しています。

けれども、これだけ資料が豊富にありながら『あまりに多くの疑問』に包まれているというのも事実なのです。分冊され、運搬の途中の事故でいったんばらけてしまったため曲順も謎のひとつとなってしまいました。さらに標題には謎めいた言葉も添えられていて疑問は深まるばかり。テーマそのものも本当に大王が与えたものなのか、ということまで疑われる始末。

順番のみならず、本来、曲集としてのまとまりがあるのかということにも疑問符がついています。実際に大王の前で弾いたというチェンバロ独奏用の「3声のリチェルカーレ」からトリオ・ソナタ、最も雄大な「6声のリチェルカーレ」まで楽器編成があまりにまちまちだからです。



だから、「音楽の捧げもの」として全曲をひとつのアルバムにまとめられているものはあまり多くありません。古くはリヒター盤、古楽スタイルではクイケンたちの盤が代表的ですが私が持っているのは有田正広、 寺神戸亮ら一級の日本人古楽奏者たちによるCDです。



テーマが、真性、大王のものなのかが疑われるのはそれがあまりにも見事に作られているからです。元来フーガはずれて重なっても調和できるような和声進行になっていることが望ましいのは当然です。ところがこのテーマは、古典音階からずれた階梯を歩み途中に奇怪な半音進行まであって調性が不安定でとらえどころがなくフーガの課題主題としては底意地が悪いことこの上ない。実は、大王に仕えていたバッハの息子カール・フィリップ・エマニュエルの作ではないかというのが有力説になっているほどです。その説をとなえたのは、十二音技法で有名なシェーンベルク。

このテーマは、最初の6小節だけで1オクターブの12音のうちすでに10個の音を使い尽くしています。重複しているのは主和音のC、E♭、Gのみ。極めて特異な旋律線だと言わざるを得ません。

シェーンベルクが、無調音楽をさらに徹底し12音技法を確立し、その技法のみで作曲した最初の作品が1923年のピアノのための「組曲」作品25。12音技法とは、1オクターブの12の音を重複しないように並べ、その「基礎音列」から得られる「反行」「逆行」など局部的な旋律の動きを素材にして楽曲を構築する手法のこと。12音すべてを重複なく使い切るという発想は、まさに「大王のテーマ」そのもの。



シェーンベルクが、作品25に続けて作曲した「管楽五重奏曲」とバッハの「6声のリチェルカーレ」を組み合わせたアルバムは、私のお気に入りのCDのひとつ。オーレル・ニコレ(フルート)、ハインツ・ホリガー(オーボエ)などバロックと現代音楽をひとまたぎする名手たちによる妙技はほんとうに見事。このアルバムは、もう1曲、ヤナーチェクの「管楽六重奏のための組曲《青春》」が組み合わされています。ヤナーチェクは、ウィーンとは違った民族音楽の世界に身を置きながら、民謡旋律に潜む話し言葉の持つ抑揚の断片を変容させていく手法により、実はバッハとシェーンベルクと呼応しているというわけです。




そういう微細な旋律細胞を浮き彫りにして、6声のリチェルカーレの対位法的テクスチュアを解体し、オーケストラの万華鏡のような新たな様相を実現させたのがシェーンベルクの高弟だったウェーベルンです。おそらくこの編曲版「六声のリチェルカーレ」(「フーガ」)こそ、「音楽の捧げもの」で最も耳にする機会の多い作品なのではないでしょうか。

細かな旋律細胞を次々と楽器を換えて受け渡していく管楽技法は、モーツァルトやベートーヴェンに萌芽がみられ、それを自覚的に多用したのがブラームスなのだと思います。ブラームスの古典・古楽探求と、その形式技法の復活・発展を称賛してやまなかったのがシェーンベルクでした。



エリアフ・インバルのブラームス交響曲全集は、交響曲1曲毎にそういう新ウィーン楽派の管弦楽作品を組み合わせたということでも、見事なプログラムビルディングとなっています。ブラームス演奏としても素晴らしく、この第4番の演奏は私の最高のお気に入りですが、古風な第2楽章、パッサカリアによる変奏曲形式の終楽章というブラームスの原典回帰、古楽への憧憬が、このウェーベルン版のバッハとものの見事に調和しているのです。


「音楽の捧げもの」にまつわるCDを渉猟してみたら、いずれもDENONばかりになってしまいました。いずれも優秀録音としてもどんな装置でも期待を裏切らないクォリティです。

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  1. ベルウッドさん、こんにちは。

    日本語訳の妙で「・・の捧げもの」となると、小生はどうしても「神への捧げもの」と言った意味に解釈してしまいがちでして、これはベルウッドさんの習慣に倣って音楽史の本を読み直す必要を痛感しました。(笑)

    でも、この曲の成り立ちを考えれば、語訳は「捧げもの」とするよりも「献呈」の方がシックリしますね。

    by椀方 at2017-10-08 09:33

  2. ベルウッドさん

    「音楽の捧げもの」、後編があったのですね。

    私が持っているのは、超定番のリヒターで、何故かそれで満足してしまってます。この曲、リヒターで原曲を知る前に、ウェーベルンの方の冒頭部分を先に知ってしまいました。昔、NHK-FMの日曜深夜に「現代の音楽」という番組(司会は上浪渡さんだった時代)があり、そのテーマ曲だったので、そういう順番で知った人も多いのかもしれません。実験的な現代音楽を積極的に紹介していたその番組でしたので、このテーマが掛かると、他局に退散していたので、良く覚えています。

    椀方さんへの横レス失礼します。

    この曲名の翻訳、実は難しいのです。ドイツ語のOpfer(英語のOfferingに相当)ですが、「生贄」や「命を捧げる」に通じる、重い言葉なので「神への捧げもの」という椀方さんの感覚の通りだと思います。で、難しいのは、神に支配権を授けられた絶対君主には神に捧げるのと同じという臣従の姿勢を示したのか、この曲集は人である王ではなく神へ捧げられたものだという自尊の姿勢なのか。ベートーベンであったならば後者なんでしょうが、バッハですとどうなんでしょうか。ベルウッドさんの紹介されていた書籍の流れで言えば、単なる臣従ではない裏がありそうな気もしますね。

    byパグ太郎 at2017-10-08 11:46

  3. 椀方さん

    「捧げもの」の原語(Opfer)が宗教的な意味も含有することはパグ太郎さんの説明の通りです。前回ご紹介した本でも、この曲の数々の「謎」のひとつとしていろいろ書いています。

    「捧げもの」がから血なまぐさい「生け贄」を連想するのは当時のドイツでもそうであったそうで、そこにおびただしい犠牲者を生んだ戦争に明け暮れる大王に対しての当てこすりでもあった可能性すら指摘する音楽学者もいるそうです。

    バッハは、音楽が宇宙や神の創造の調和、秩序を示すものというヨーロッパの伝統的音楽観の代表でもあったし、一方で大王はそういう音楽観を古いと見下し、カール・エマニュエルの世代の音楽観を支持していました。そういう現世、世俗の愉悦のための音楽という考え方に対して、自分の音楽は神へ献呈するもの、供物であるとバッハは言いたかったのかもしれません。

    バッハは、こういう言葉遊び、暗喩、音名によるウォータープリントみたいな文字の埋め込みをいろいろやっています。

    byベルウッド at2017-10-09 06:59

  4. パグ太郎さん

    私も、ウェーベルン版は「現代の音楽」で知ったというクチです。「音楽の捧げもの」は、先に聴いていました。何がきっかけかは忘れましたが、高校生時代にはけっこう夢中になってスコアを買い込み鏡に映して見てみたり、何もわからないくせにバカなことをいろいろやっていました。

    byベルウッド at2017-10-09 07:01

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