ベルウッド
ベルウッド
クラシック音楽ファン:よい演奏会があると知れば遠征もいといません。オーディオシステムは、音楽そのものを楽しむのが本来というモットーのもとにコストパファーマンス重視で小ぶりな装置を目指します。正統オーデ…

マイルーム

メインシステム
メインシステム
持ち家(戸建) / リビング兼用 / オーディオルーム / 16畳~ / 防音なし / スクリーンなし / ~2ch
スピーカー:    PSD T4 Limited Special-ネットワークレス・マルチアンプ駆動 調音パネル:    Escart Ventoスクエア パワーアンプ:   金田式DCアンプ…
所有製品

レビュー/コメント

レビュー/コメントはありません

カレンダー

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新のレス

お気に入り製品

お気に入り製品はありません

日記

バーンスタイン「不安の時代」 (読響定期 サントリーホール)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2018年06月08日

読響は、こういう20世紀音楽を取り上げ、しばしば予期せぬ快演をやってのける。

バーンスタインの「不安の時代」、しかも、河村尚子がソロを務めるとあって久しぶりにサントリーホールに駆けつけてみた。

改修後のホール音響にも関心があったが、結果的にはあまり変わったという印象はない。席は、このホールのロイヤルシートとも言うべき2階RB席。8列目で若干後ろだが、あらためてこのブロックが音響面でも視覚面でもベストだと確認できた。



ピアノは、ステージ中央、指揮者と相対する形で設置され音響板は外されている。客席からは直接、河村の顔が見える。2階席を取ったことは、そのことでも正解だった。それだけではなく、この曲には盛大に打楽器が取り入れられ、ステージ左奥にはチェレスタとアップライトピアノまで配置される。それらを俯瞰するにも絶好の席だった。

この曲は、イギリス生まれの作家 W.H.オーデンによる同名の長編詩にもとづいて作曲されたという。その詩は、第二次世界大戦中のニューヨークを舞台に4人の若い男女の独白のようなものを描いているという。その語感には、何かおどろおどろしい暗い世相や怨念のような思潮を感じさせるし、確かにかつてラジオで聴いた印象のおぼろげながらの記憶はそのようなものだったような気もする。

けれども、今、こうやって実演を聴いてみると、瑞々しいまでの若々しい覇気に満ちた、実に爽快な音楽だ。

確かに標題の「時代(“age”)」というのは、戦中あるいは戦後まもない「歴史的」な時代を指していることは間違いない。けれども、絶対音楽としての気分は、青春ともいうべき「人生的」な時代(年齢(“age”)のことを言っているような気がする。そこから想起するのは、石原慎太郎の「太陽の季節」。ちょうど時代も重なるし、若者の「健康な無恥と無倫理」ともいうべき無軌道な生活と行動ということでも共通する。「時代」は「季節」にも通ずる。何よりも既成の価値観への挑戦ということに新鮮な高揚感を覚える。



そういう演奏になったのは、何と言っても河村尚子のピアノ。アクロバチックで、なおかつ、クラシックな語法からすれば破天荒なジャズっぽいリズムや音の跳躍を嬉々として演奏する姿がとても瑞々しい。イラン・ヴォルコフの指揮も冴え渡り、それに応えた読響も実に颯爽としていた。

ヴォルコフは、1976年イスラエル生まれ。演奏には、そういうユダヤ的なものは感じさせない。

バーンスタインもかつてはそうだった。今でこそマーラーのエキスパートのように思われるが、若い頃はむしろヤンキーまる出しのイメージが強かった。当時、もてはやされたのは、名門ニューヨーク・フィルにとって初のアメリカ生まれの生粋のアメリカ人だということ。ロシア系ユダヤ移民の子だとは誰も意識はしていなかった。「不安の時代」には、思春期の焦燥や哀感はあってもマイノリティの陰のようなものは微塵もないし、やっぱり颯爽とした覇気こそがこの曲の本領なのだと思う。

そのことがちょっと異変を来したのはショスタコーヴィチ。

この曲の演奏解釈は、1980年代の「証言」以来、ずいぶんと変遷してきたのだと思う。21世紀の演奏家や聴衆にとっては、そういう変遷はもはや彼方のことで、解釈の基準は「以後」にあって、演奏は多様化して深化している。けれども、ヴォルコフの解釈は古い。ヒーロー的な5番。そのことに気がついたのは、しばらくしてからだった。

出だしからして音が粗い。

管楽器群はまだしも、弦楽パートは、終始、アンサンブルが粗雑だった。最初のハーモニーからして堅く濁りがあって、繰り返しではそれが改善するのは音程などが合っていなかったからだろう。とにかく平板で単調。第3楽章も、作曲者が8段(Cbのdiv.を加えれば最大10声)にまで細分化して表現しようとした神々しいまでの悲愴、悲嘆、葛藤、抵抗の美が、単なる感情的なヒステリーに過ぎなくなってしまう。

読響の本来の実力からすればそんなはずはない。それは指揮者との解釈上のコミュニケーションの欠如なのだろう。そういう楽団とのズレを修正するために、指揮者はひたすら強奏を強いるしかなく、楽団は自主性を封印してただひたすら指示に従ったのではないか。

この日のプログラムは、あの時代のバーンスタインへのオマージュだったに違いない。



バーンスタインは、「雪解け」の1959年に音楽監督就任間もないニューヨーク・フィルを引き連れてモスクワへ遠征する。その時の曲目が「不安の時代」でありショスタコーヴィチ「5番」だった。その録音は、途上立ち寄ったザルツブルク音楽祭のライブ盤として残され、「不安の時代」の定盤のひとつとなっている。バーンスタインは、ショスタコーヴィチを盛んに演奏した。日本の聴衆にとっては、1979年東京文化会館でのライブ録音が決定的名盤となっている。ヒーロー的ショスタコーヴィチ「5番」の代表といってよい。



そういう「ずれ」が解消したのは、終楽章を迎えてからだ。

バーンスタインが『いまさらがまんして聞くことができる人がこの20世紀の世界にいるものだろうか。…しかし、めざましい効果をあげている』と称賛した単純な4音で一貫している終楽章。終結へのクライマックスでは、四分音符のラ音をただひたすらに絶叫し続ける。表面的な単純さを、率直にそのままヒロイックな単純さにしてしまうのは、あの「時代」のアメリカであり、アメリカ的な若さだったのだろう。そのことが、単純だっただけに、読響のメンバーにも単純に浸透できたのだろう。

聴衆は大喝采だった。終わりよければすべてよしだ。







読売日本交響楽団 第578回定期演奏会
東京・赤坂 サントリーホール
2018年5月30日(水) 19:00
指揮=イラン・ヴォルコフ
ピアノ=河村 尚子

(2階RB8列 6番)


プロコフィエフ:アメリカ序曲 変ロ長調 作品42
バーンスタイン:交響曲 第2番「不安の時代」

ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 ニ短調 作品47

次回の日記→

←前回の日記

レス一覧

  1. お早うございます。

    「不安の時代」は一度放送で聴いた記憶が微かにあるくらいです(どんな曲だったか全く覚えていません)。が、記事の内容から、ベタですがウェストサイド ストーリーを連想してしまいました。

    あの作品はロミオとジュリエットの現代版として捉えられていますが、常々、何か違和感を感じていました。名門貴族の対立の犠牲になった純愛という話とは、全く異質です。つまり、米国社会の底辺、即ち一番最近移民して来た集団が抱える、ギラギラした反社会的暴力と孤立感、上昇志向の中にいる若者たちのエネルギーの暴発ではないかと思っていました。(ポーランド移民とプエルトリコ移民のギャング団という設定自体に、シェークスピアよりもゴッドファーザーの世界を感じてしまうのです)

    一方、バーンスタインのつけた音楽は、外見的にはジャズ、ロックでヤンキーそのものの様に見えますが、プロコフィエフの『ロミオとジュリエット』を聴くと、そのバーンスタインへの影響が、そこかしこに隠れている気がします。つまり、ここでも革命と亡命の音楽が古層ではつながっていると思ったりもします。(プログラムには、彼の曲も入っていますね。こちらも聴いた記憶がないです)

    「不安の時代」を知らずに、単なる連想で書いていますので、全くの的外れかもしれません。

    byパグ太郎 at2018-06-09 05:41

  2. パグ太郎さん

    プロコフィエフもロシアとアメリカとの両義性を備えた作曲家です。「アメリカ序曲」は初めて聴きましたがけっこう楽しめました。

    けれどもプロコフィエフは、かなりヨーロッパ正統の音楽でありアメリカというよりもフランス的なモダニズムなのだと思います。バーンスタインと同じ様にロシアからのユダヤ系移民が出自のガーシュインとプロコフィエフを両端に置いて比較すると、「不安の時代」はプロコフィエフ寄りですが音楽性という点ではプロコフィエフを超えていないと思います。一方で、「ウェストサイド物語」は、ガーシュイン寄りですが、娯楽性という意味でも音楽性という意味でも、この先輩作曲家をはるかに凌駕しているといえるのではないでしょうか。

    byベルウッド at2018-06-09 21:37

レスを書く

レスを書くにはログインする必要があります
ログインする