ベルウッド
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クラシック音楽ファン:よい演奏会があると知れば遠征もいといません。オーディオシステムは、音楽そのものを楽しむのが本来というモットーのもとにコストパファーマンス重視で小ぶりな装置を目指します。正統オーデ…

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持ち家(戸建) / リビング兼用 / オーディオルーム / 16畳~ / 防音なし / スクリーンなし / ~2ch
スピーカー:    PSD T4 Limited Special-ネットワークレス・マルチアンプ駆動 調音パネル:    Escart Ventoスクエア パワーアンプ:   金田式DCアンプ…
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日記

ラトル最後の定期公演 (ドイツ音楽三昧 その5)

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2018年07月11日

この夜は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期公演。

2002年、クラウディオ・アバドの後を受けて首席指揮者/芸術監督の座についてサイモン・ラトルは、この2017/2018年のシーズン末をもって退任する。この日は、その任期最後の定期公演。二日にわたる公演の最終日であり、文字通りラトルのラストコンサートというわけです。

さすがにそういう特別なコンサートということで人気が集中。ベルリン・フィルの公演チケットは、前もってネット経由で比較的入手しやすいのですが、今回はネットでの発売日当日に満席。その後の再発売でも早々に完売でネットがつながりません。最後の最後に、電話受け付けがあるということでしたが、奇跡的に国際電話がつながりチケットを入手できることができました。電話での会話に半信半疑であったのですが、確かにチケットが郵送されて手元に届いた時は思わず快哉を叫んでしまいました。



前回は、12月でしたので8時の開演時間ですでに真っ暗でしたが、今回はようやく日が傾いたという程度で周囲はまだまだ明るい。DST(夏時間)ということもあって、日本の感覚からするとあまりコンサートの始まりという気がしません。すっかり馴れ親しんだ道筋をたどってフィルハーモニーに向かいました。



ところが席を確認してびっくり。

入手できただけで天にも昇る心地だったのでろくに確認しておらず、左手ブロックの前のほう…程度にしか思っていなかったのですが、行ってみると2列目のど真ん中。番号は3列目(Reihe 3)となっていますが、センターブロックは2列目から始まっているので実際は2列目になります。しかも、、このホールはステージが低く1階客席であっても最前列からかなりの傾斜がついているので、私たちの席はほんとうに指揮台間近でまさにかぶりつきの席。



あまり前過ぎると、音は頭上を抜けていってしまい、管楽器は視覚的にも聴感的にも弦楽器群の陰になってしまうので、音響のバランスがかえって悪くなります。小編成など、曲によっては前の方も面白いのですが、当日は、とびきりの大編成のマーラー。ステージ上は横幅いっぱいにぎっしりと椅子と譜面台が並んでいます。これはかなりかぶりつきの音響バランスになってしまうなぁと危惧が頭をよぎりました。



しかし…

案に相違して、素晴らしい音響でした。繊細・精妙かつすさまじいダイナミックスのマーラーが展開する未体験のゾーンに達するような凄みのある演奏を体験しました。

プログラムは、マーラーの交響曲第6番。実は、ラトルはベルリン・フィルのシェフ就任の初めての演奏会でこの曲を取り上げていて、ベルリンでのキャリアを同じ曲で始め、そして同じ曲で閉じるということになります。約1時間半、休憩なしの1曲のみ。

実は、私は3年前にこの同じ6番をアムステルダム・コンセルトヘボウで聴いています。

この曲を世界の頂点にあるオーケストラを現地で聴くというのは格別な体験でした。その同じ曲をまたまた世界最高峰のオーケストラを同じようにその本拠地で聴くという体験を重ねることになってしまいました。

あの時には、柴田南雄氏の「マーラーはレコードで聴くのとナマを聴くのでは、どうしても大差がある」「どんな機械装置でも再現できるはずがない」(岩波新書「グスタフ・マーラー」)という言葉を引いて、まさにその通りだったと言い、さらには不遜にも『マーラーは、欧米の超一流オーケストラで聴かないと聴いたことにはならない』とまで付け加えてその音楽は強烈だったと言い放っています。

字句通りには、今回も同じように強烈なマーラーです。しかし、響きの豊かなコンセルトヘボウでのガッティの多弁で豊穣なマーラーと、音の明晰なベルリン・フィルハーモニーでのラトルの精緻で強靱なマーラーとは、どこまでも対照的でした。

ザッザッザッザッと刻むように行進曲風の音楽が始まり最初のffが鳴り響いたとたんに、これはただならぬマーラーが始まったと感じました。とても明るい色彩で、一切の感傷も思わせぶりもない明晰なマーラー。コンセルトヘボウでこの曲を聴いたときは、ちょうどアンネ・フランクの隠れ家を見学した直後で、ここにただならぬファシズムの残虐な歩みやユダヤ民族の運命を感じ取って背筋が凍りつくような感覚を持ったのですが、いまこのベルリン・フィルハーモニーではそういう感傷が一切排除された透徹した合理性と天空の高みにまで突き抜けるような高揚があるのです。



マーラーの精緻なスコアがどこまでも見通せるようにハープやチェレスタまでありとあらゆる楽器の音がクリアに聞こえ、かぶりつきにもかかわらず後方の管楽器や打楽器群の演奏者の表情がつぶさに見通せるのです。目の前の弦楽器も後方の管楽器と見事なまでのバランスで聞こえます。そして何よりもそのアンサンブルの見事なこと。目前のコンマスの音は一切聞こえません。それどころか誰一人の音も聞こえない。全員の一本だけの音しか聞こえない。完璧なユニゾン。

それが横幅いっぱいに長い音像としてクリアに定位する。右には同じように第二ヴァイオリンが幅いっぱいに定位する。とにかくありとあらゆる楽器の定位がものの見事にクリアでしかも視覚と一致します。唯一の例外は、カウベル。演奏者の姿が見えないのでどこから音が出ているのか確認のしようがありません。私の席からは右手上方のオルガンあたりから聞こえます。見上げるとオルガン横の入り口のドアが開いていますが、よくわかりません。コンセルトヘボウでのカウベルの音は、アルプスの山々にこだまするように広がっていましたが、このベルリン・フィルハーモニーではステージ上方に浮遊するように鳴ります。



反射がほとんど無くて、間接音が抑制されたこのホールならではのサウンドですが、この空間をここまで鳴らしきるのはベルリン・フィルだからこそなのだと改めて思いました。ラトルのマーラーは極限までにドライで、ベルリン・フィルの機能と動的性能をフルに引き出していてマーラーのシンフォニックな高揚が天空にまで伸びていく。「悲劇的」という下降沈潜するような重力は一切感じません。むしろ、マーラーの壮大な想像と瞑想に誘引されて自分まで舞い上がってしまうような上昇感覚や飛翔感覚があります。悲劇や運命だとかいった絶望とか挫折というものは皆無。むしろ壮絶なまでに一途な愛の宣告といったほうがふさわしい音楽。演奏された楽章の順番のせいもあるのか、今までのこの曲への私の固定観念を塗り替えるような極限的な演奏です。

柴田南雄氏の「どんな機械装置でも再現できるはずがない」というのは間違っていた。いま目の前で鳴っているベルリン・フィルハーモニー管弦楽団こそ、マーラーを完璧に演奏できるマシンそのもの。しかも、この世に存在する唯一の完璧な機械なのだ…。終末の悲愴な和音の余韻のなかで噴き上がるような感動とともに、なんとも言えない虚脱感が襲ってきます。それはまるで完膚なきまでに打ちひしがれた敗北感だったと言ってもよいかもしれません。



終演後の聴衆の興奮にはすさまじいものがありました。総立ちの聴衆から何度も何度も呼び返され、楽員からも花束を受け取るラトルの表情にも会心の笑みがあふれています。前任のアバドは、ベルリン・フィルの歴史上初の生前に退任した指揮者だったとのことですが、ラトルは、初めて“alive and well”の退任だとのこと。団員がステージから去ってからも空っぽのステージに現れて何度も聴衆の歓呼に応えていました。「ラトル、ありがとう」との横断幕も掲げられていました。



早くもピークに達した感のある今回の音楽三昧旅行ですが、翌日はいったんベルリンを離れドレスデンに向かいます。

(続く)



ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会
2018年6月20日(水) 20:00
ベルリン ベルリン・フィルハーモニー
(ブロックA左 3列 17番)

サイモン・ラトル(指揮)

マーラー:交響曲第6番
 1. アレグロ・エネルジコ・マ・ノン・トロッポ
 2. アンダンテ・モデラート
 3. スケルツォ
 4. 終曲 アレグロ・モデラート

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  1. 予告編の衝撃が大きかったので、本編は成る程、成る程という落ち着いた気持ちで拝読できました。

    「何だかオーディオなんてイヤになっちゃいました。打ちのめされたような気分です」という、恐らく演奏会当日の激白は、このようなことだったのですね。

    体験しないと判らないことだとは思いますが、それでも判る様な気がいたします。

    byパグ太郎 at2018-07-12 17:20

  2. ベルウッドさん
    コンサートホールで聴く音楽は、聴く側の人間もライブならではの高揚感があるし、なによりも音楽を五感で感じるところが、オーディオ再生音楽を聴くところの違いがあるのだと、常々感じています。

    五感をフルに使って感じ聴き取る生演奏の感動と同等の体験が出来るオーディオシステムを構築するのは並大抵のことではないし、それを実現したオーディオファイルの方は極々少数ではないでしょうか。

    ですから小生の場合、コンサートホールで聴くのが主であり、自宅のオーディオで聴くのは補助的な位置付けになるので、本質的なところではない生演奏を聴いてオーディオが嫌になることは無いのです。

    by椀方 at2018-07-13 08:24

  3. パグ太郎さん

    私はいわゆるコンサートゴアーで、幾多のコンサート生体験をしていますがこれは衝撃的でした。30年前にシカゴの本拠地でショルティ/シカゴ響の演奏を初めて聴いたときも衝撃的でしたが、うぶだった若い頃の衝撃と今回の衝撃は比較になりません。

    生演奏とオーディオ再生とは別ジャンル、別カテゴリーと分ける考えもありますが、今回のサウンドはオーディオ再生の領域にまで踏み込んできて散々に蹴散らかすようにやっつけてしまうようなものだと感じました。ショックのひと言です。

    byベルウッド at2018-07-13 11:38

  4. 椀方さん

    音楽鑑賞ということならコンサートで体験するのが本来であると思います。逆に、感動ということではラジカセで聴いても感動は感動であって生との価値や序列をとやかく言うことはないということでしょうね。

    安価なシステムで聴いた音楽の感動が、高価なもので聴いた感動に劣るということはないはずです。でも、オーディオファイルのなかには、そんな安物で聴いても本当のことは聞こえてないとか、まるで感動そのものも安物であるかのような趣旨のことを言うひともいるわけです。

    トスカニーニは、当初、ラジオ放送会社の専属となることを躊躇しますが、ベートーヴェンの第九を鳴らすラジオの上でカナリヤが声を合わせるようにさえずることに感動し、ラジオなら百万人の聴衆を喜ばせることができると決心したそうです。この逸話は多分に当時のNBCのプロデューサーの作り話めいていますが、真実を言い当てているような気がします。

    オーディオシステムというのはあくまでも音楽を楽しむ手段であって、機材や部屋にばく大な時間と労力、財力をつぎ込むのは、それとはまた違う別の独立した趣味の世界なのではないかと思ってしまうのです。音楽とは別の、機械装置への愛着心、蒐集趣味。あるいは物欲とか嫉妬心、支配欲などと心理的には固く結びついているのかもしれません。

    オーディオは再生芸術だとか、金をかけたオーディオシステムの性能などの委細と音楽とをごっちゃにして語ることの恥ずかしさが急にこみ上げてきたということかもしれません。

    音楽もオーディオも、嫌いになったわけではありません。

    byベルウッド at2018-07-13 12:09

  5. ベルウッドさん
    生演奏とオーディオ再生とは別物と捉えるのが納得感がありますね。

    音楽を聴くことで気分が高揚して幸福な気持ちになったり、心が穏やかになって癒されたりすることに関しては、コメントにも書かれているように例えラジカセの音だろうと音楽の本質は伝わるので、音楽を聴く手段に優劣をつけることはないと考えています。

    しかし往々にしてオーディオ再生になると、装置に掛けた金額の大小や部屋の広さなど、音楽の本質とは関係ないところに優劣や序列を付けて、それがあたかも再生される音楽に優劣があるかのように語られてしまうことです。

    そういった意味で、音楽鑑賞趣味とオーディオ趣味とは似て非なるもの、全く別物と考えるべきで、これを同じ土俵に乗せると全く噛み合わなくなってしまいますね。

    by椀方 at2018-07-13 14:23

  6. 椀方さん

    仰るように、やっぱり別物なんでしょうね。そう思います。

    今回のサウンド体験は、おカネをかけた弩級のハイエンドと超優秀録音と同じ土俵に踏み込んできて散々に打ち負かすようなサウンドでした。広大なダイナミックレンジ、近接マルチマイクの微少な楽器音も拾うクリアさと明確な定位、最良のピンポイントでのパースペクティブで絶妙なバランス…といったオーディオならではの優位性をことごとく吹き飛ばすようなサウンドに衝撃を受けてしまったのです。

    オーディオの優位性というのはやっぱり万人が同時かつ多様に楽しめるユビキタスな「普及」「遍在」性にこそ求めるべきなのではないでしょうか。

    byベルウッド at2018-07-14 11:31

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