裏庭の英雄
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裏庭の英雄と申します。クラシック音楽を愛好しております。 10代の頃にオーディオの世界に触れ、憧れること数年。その間、ショップやオーディオショウに出向いては、試聴や知識の吸収に努めました。 …

マイルーム

我が愛しのタンノイ
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借家(戸建) / 書斎兼用 / オーディオルーム / ~6畳 / 防音なし / スクリーンなし / ~2ch
シンプルな構成ではありますが、ある程度自分の満足できる音が出せるようになって来たと感じております。 暫くは、システムには手を加えずに音楽鑑賞を楽しんでいきたい思っています。 従って今後…
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日記

交響曲の王

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2013年01月19日

皆様、こんにちは。
多忙により年始の挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。今更ではありますが、今年も宜しくお願い致します。

今回は本年度一発目の記事ということで、それに相応しく「交響曲の王」について書いてみたいと思います。


「交響曲の王」といえばどの曲を思い浮かべますか?と尋ねられて一番回答の多いものは、恐らくベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調ではないでしょうか。
この回答については、私もあながち間違っているとは思いません。曲想、構成、音楽史的基点、知名度、など様々な面でこの曲が「交響曲の王」という立場に存在すると見てまず問題はないでしょう。


ベートーヴェンの交響曲第5番は、俗に『運命』という副題で呼ばれることもありますが、ご存知の通りこれはベートーヴェン自身が名付けたものではありません。
自称ベートーヴェンの秘書であったアントン・シントラーという男が、この曲の第1楽章第1主題の「運命の動機」(有名なダダダダーンの部分)について、「運命はかく扉を叩く」とベートーヴェン自身が語った…と伝えたことから、この交響曲に『運命』という副題が日本で定着していったようです。

しかし最近の研究から、このシントラーの伝えた話は、自分が大衆の注目を得るためにでっち上げた作り話だということになっております。
シントラーは他にも自身の立場を有利にするために、ベートーヴェンに関する資料を改ざんしたり破棄したりと、かなり無茶苦茶な行動をとっていたようです。


残念ながら日本ではレコード会社のキャッチコピーなどで『運命』という副題が定着してしまい、慣習的に現在でも使用され続けています。ただしこの『運命』という表記は、日本を中心としたアジア諸国のみで用いられ、欧米では滅多に使われることはありません。

このような話を鑑みると、この曲を『運命』と呼ぶのは相応しくないのかも知れませんが、慣習と字数省略のために、この場では『運命』の表記を使わせて頂くことをお許し下さい。

ちなみに、このシントラーの伝えた話のせいで、楽曲の解釈にまで「運命の荒波に翻弄される人間」や「運命に打ち勝つ人間への賛美」というような標題性が付加されている訳ですが、これについては私の考えとしては、ある程度許容してもよいのではないかと思っています。
というのも、再現芸術であるクラシック音楽として、絶対音楽に内包される標題性に関しては、必ずしも作曲者の意図を重要視する必要は無いと考えるからです。
そこに、「運命との闘いと克服、勝利」という解釈があっても別に良いのではないでしょうか。


さて、『運命』という交響曲を私の知識内で解釈するならば、全体を通しては「暗から明へ」抑鬱されたものからの解放という構成に至ります。
しかし、曲の細部を聴き込んでみると「暗と明」の対比が「短調と長調」という形で楽曲のそこかしこで用いられていることに気付かされます。これは交響曲第3番『英雄』で用いられた調性対比の発展型と言えるでしょう。

第一楽章(ハ短調)では、「運命の動機」(ダダダダーン)が手を変え品を変え畳み掛けるように反復されます。一楽章はほぼこの動機で構成されていると言ってしまっても問題ないでしょうし、その後の楽章でも「運命の動機」は繰り返し使用されています。
この、気に入ったフレーズを展開させていく能力はベートーヴェンの傑出した才能の一つでしょう。『運命』以降の作品でもこの展開の上手さは目立っていき、最晩年の「変奏曲への執着」という境地に到達する形で実を結ぶこととなります。
ここでの暗と明の対比は、第一主題が短調で第二主題が長調と明確に表れており、そこで劇的な暗から明への転調を行っています。一瞬にして雲が晴れたように長調の世界が広がるという急転は、提示部でも再現部でも共通しております。

第二楽章(変イ長調)では、コントラバスのピッツィカート上でヴィオラとチェロが穏やかに主題を奏で、その後クラリネット、ファゴットへ受け継がれていきます。
この楽章は巨大な変奏曲とされており、第一変奏ではヴィオラからチェロへと「運命の動機」を発展させたリズムが奏でられます。第二変奏ではヴィオラとチェロのユニゾンから、チェロとコントラバスのユニゾンへと更に変奏が拡大されていきます。第三変奏ではトゥッティで主題が奏でられ、コーダで閉じられます。

第三楽章(ハ短調)では、また短調と長調の対比が再現されます。スケルツォ(短調)とトリオ(長調)の反復です。下で示しますが、反復を3部形式と捉えた場合でも、「暗から明へ」「明から暗へ」といった劇的な調の変化が存在します。
トリオ部では、チェロとコントラバスが同じ動機を主題提示する様が圧倒的で、それに続く他の楽器のフーガ(フガート)を含め、ベルリオーズはこの部分を「象のダンス」と形容したそうです。
三楽章に於けるスケルツォとトリオの反復は、楽譜の版による問題が発生することで有名です。昨今流行りのベーレンライター版含め一般的には、スケルツォ-トリオ-スケルツォの3部形式の解釈ですが、ギュルケ校訂版(ペータース版)ではダ・カーポを採用した、スケルツォ-トリオ-スケルツォ-トリオ-スケルツォの5部形式を採用しています。
もっとも、この部分は版による縛りも曖昧なようで、各指揮者がそれぞれ思う通りに反復するかどうかの選択をしているのが現状のようです。例えばピリオド奏法の『運命』を聴く上で絶対外せない、ロジャー・ノリントンによるシュトゥットガルト放送交響楽団の演奏ではベーレンライター版を謳っているにもかかわらず、第三楽章でリピートを行っています。

第四楽章(ハ長調)では、アタッカにより前楽章のクレッシェンドからなだれ込んできた輝かしい響きと共に、『運命』以前の交響曲では扱われなかったトロンボーン、コントラ・ファゴット、ピッコロを伴って圧倒的なトゥッティで冒頭が飾られます。
トロンボーン、コントラ・ファゴットが低音域に、ピッコロが高音域に加わることで、オーケストラはそれまで以上の音域を獲得します。これに均衡を持たせるために弦楽部が拡大、増員され、結果としてオーケストラ全体の規模が拡大されました。
これは交響曲に於ける、貴族のサロンから歌劇場への規模の拡大を意味し、『英雄』以降に見られるクラシック音楽の大衆化に拍車をかけたともいえるでしょう。
非常にシンプルな第一主題を経て、第二主題は4音動機との組み合わせが呈示されており、ここにも「運命の動機」との関連性を感じさせます。
展開部には第三楽章の終結部が回帰し、構造的な革新性を示します。これにより再び「運命の動機」が循環し、最終的にチェロ、コントラバス、ティンパニが加わって再現部へと繋がっていきます。
再現部は古典的な様式に沿ったもので、テンポを上げてコーダに至り、チェロとコントラバスで「運命の動機」が反復されて圧倒的な興奮の中、全曲を締めくくります。


勿論『運命』の音楽的な素晴らしさは「暗から明へ」というカタルシスのみに有るわけではありません。

ハイドン以降、短調で始まり長調で閉められる交響曲には、ある種のメッセージ性が内包されています。
ベートーヴェンが「運命の動機」の構想を得たといわれる1798年頃は、難聴を自覚し始めた時期でもあり、ベートーヴェンは楽曲に「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」という社会的メッセージを込めて作曲を始めます。
さらに、『運命』以前は、トロンボーンは「神」を表す神聖な楽器として宗教曲以外での使用は自重されていました。この楽器をベートーヴェンが交響曲に取り入れたのは、音域の拡大のいう面以外に、「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」というメッセージに神聖性を付加する側面もあったのだと思います。
このあらゆる時代の人間に対して、普遍的に通用するメッセージにも『運命』が時代を超えた傑作であることを感じさせます。

また、その綿密極まる造形美も特筆されるでしょう。
例えば先に作曲された『英雄』と比較した場合、『運命』の構成は極限まで整理し尽くされており、粗雑さや無駄がほとんどありません。ロマン的な部分を有しつつ、古典的構造美に溢れているという側面もまたこの作品が広く愛される一因となっているのでしょう。


ベートーヴェンは、交響曲を二曲一セットという形で作曲、発表するというスタイルをとっておりました。つまり、交響曲第5番と同時に制作されていたものは、交響曲第6番『田園』ということになります。
この2曲は、冒頭の主題が休符から始まることや、主題の最後にフェルマータが設けられていることなど、共通点も散見されます。しかし『田園』に関しては、変則的に5楽章で構成されている交響曲であること、各楽章に標題がつけられていることなど、『運命』以上に非常に革新的な作品です。
面白いことは、『運命』で完成させた構造的な完璧さを、自ら直ぐに破棄し、『田園』で全く性質の異なる傑作を生み出しているという所です。
この新しい音楽への貪欲な探究心こそが、「古典」を完成させ、「古典」を壊し、「ロマン」を切り開いた、ベートーヴェンの真の才能だったのかも知れません。




楽曲の話はこのくらいにして、ここからは『運命』のディスク紹介に移りたいと思います。
「交響曲の王」ともなると、掃いて捨てる程の名盤が残されている訳ですがw、今回は私が保有するディスクの内、偶々SACDだったものをピックアップして聴いてみました。
名盤を作為的に取り挙げるより、この方が無作為なチョイスとなり、面白そうだったからです。ついでに、前回予告していたハイブリッドSACD盤のSACD層とCD層の比較も同時にやっちゃおうという手抜きの意味もあったりしますww。


■サー・コリン・デイヴィス&BBC交響楽団(1972年録音)

C.デイヴィスでベートーヴェンの交響曲といえば、多くの方はシュターツカペレ・ドレスデンとの新全集を想像するのではないかと思いますが、個人的には傑作揃いは旧録であるBBC響(一部ロンドン響)との演奏だと思っています。
特にBBC響との2番、4番、5番は隠れた名盤ではないでしょうか。2番は実は未だにCD化されておらず、LPのみしかないのですが、知人宅で一度聴かせて頂いただけにもかかわらず、素晴らしい演奏だとすぐに分かりました。
名演の少ない2番の中で、決定的な演奏となりうるC.デイヴィス&BBC響のCD化は個人的に以前から切に願っております。(調べてみたら4番も現在は廃盤のようですね。こちらも絶対に再販すべき名演です。)

さて、C.デイヴィスの『運命』ですが、この演奏は悠然とした巨大なテンポが緊張感と共に流麗に奏でられるものとなっております。
恣意的なアーティキュレーションを一切感じさせないのが特徴でしょうか。では音楽が平面的なのかというと、そのようなことは決してなく、楽曲全体を通じて大きな一つのうねりが形成されています。
小手先の表情付けを排して、個性のアピールという誤魔化しを極力避けているのが、逆に清々しく思います。
ドイツ的重厚さを持って正面から直球勝負を仕掛けている、確信に満ちた『運命』ではないでしょうか。

録音に関しては、フィリップスらしい自然なアナログ音質であると感じます。ちなみに、このSACD盤は元フィリップスのエンジニアが新たに立ち上げた「ペンタトーン・クラシックス」というレーベルのソフトになります。
CD層からSACD層に切り替えると、ホール感や空気感がグッと上がります。オケの音色も繊細になりましたが、迫力の面で少し物足りなくなる気もしましたのでボリュームを僅かに上げました。(ちなみに、私の使用するSACDプレイヤーは、CD/SACD層による出力レベル差は調整されています。)
ボリュームを戻してSACD層からCD層に切り替えてみると、それでもこちらの方が音に厚みが感じられました。
この盤では音場のSACD層、音像のCD層といった感じで、聴き方の好みに合わせてレイヤーの選択をするのがベストだと感じました。


■パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(2006年録音)

ヤルヴィというと私は、父の方のネーメ・ヤルヴィを先ず浮かべてしまいます。パーヴォ・ヤルヴィの父親であるN.ヤルヴィの演奏するショスタコーヴィチは、ムラヴィンスキーのそれに匹敵する程の才能を感じたものです。
そんなN.ヤルヴィを追い越さんというばかりに現在、快進撃を続けているのが息子のP.ヤルヴィです。
オーケストラを自由にドライブし、元打楽器奏者らしいティンパニの強調を特徴としたN.ヤルヴィとは異なり、P.ヤルヴィはピリオド奏法を取り入れた非常に丁寧で繊細な表現を持ち味としている指揮者です。

P.ヤルヴィの『運命』は、ドイツ・カンマーフィルによる50人程の少人数構成で演奏されます。弦楽器の構成は6-6-6-4-3でコントラバスを左最奥に置いた変形対抗配置。ティンパニは右最奥に置かれており、かなり特殊な楽器配置です。
使用楽器も特殊で、基本的にはモダン楽器を使っているのですが、ティンパニとトランペットはピリオド楽器を使用し、コントラバスの弓も一部ピリオドを使用しています。
スコアは勿論ベーレンライター版です。

演奏に関しては、第一楽章冒頭で「運命の動機」と「次の動機」が殆ど続けざまに一息で演奏されます。8つの音をひとかたまりと見なした解釈です。テンポはかなり早めでノンビブラートですのでこの時点で既に、超モダンスタイルで行くことが予見されます。
その後も予想通りビブラートは最小限に抑えています。印象的なのは各小節の中央にアクセントを置いた、途中から音が盛り上がってくるような響きでしょうか。
第二楽章以降は少しテンポを抑えて(それでも速いですが)、音の細部まで徹底的にコントロールを効かせているのが特徴的です。
金管をパッパッパッと短く区切って吹かせる指定。木製のバチで叩くティンパニの独特の響き。モダン楽器とピリオド楽器の融合。長い音を途中から少しずつ段階的にデクレッシェンドして音を小さくする奏法の珍しさなど、今までの斬新なピリオドアプローチの『運命』から更に一歩踏み出した、当に新時代の『運命』を感じました。

録音に関しては、元フィリップスのスタッフが行ったと言うだけあって非常に鮮明なDSD録音です。
CD層からSACD層に切り替えると、旧スコアリングステージ・スタジオの独特なホール音響が、よりいっそう明確に表現されます。ピリオド楽器の生々しさもSACDの方が上であり、この盤は断然SACD層で聴くべきだと感じました。


■小林研一郎&チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(2010年録音)

小林研一郎という指揮者は定期的に大阪フィルに客演しています。地元の私は、大植英次、下野竜也、と並んで個人的に生演奏を聴く機会の多い指揮者の一人です。
小林研一郎といえば「炎のコバケン」の愛称で知られるように、爆演と客席にまで広がる唸り声が特徴の指揮者で、ライブで人を沸かす能力に長けていると感じます。欠点としては名演と駄演の幅が広い不安定さが挙げられます。
そんなコバケンは毎年「3大交響曲の夕べ」というコンサートを開き、そこで『運命』も演奏しているのですが、私は今までにこのコンサートに3回足を運んでいます。
しかし残念なことに『運命』に関して満足のいく演奏を聴けたことは今のところありません。ここでのコバケンの指揮は、オケの自主性にまかせて走らせていることが多く、指示が徹底していないように感じています。

普通なら「もうコバケンの『運命』はいいだろう…」と思うところですが、昨今流行のピリオド奏法を取り入れたスタイルを愚直に排し(使用楽譜は旧ブライトコプフ・ウント・ヘルテル版)、20世紀の大時代的な奏法を貫く姿勢が私のツボで、この「3大交響曲の夕べ」にはついつい心が惹かれてしまうしまうのですww。
(尚、彼の名誉のために言っておきますと、コバケンの代名詞であるチャイコフスキーなどは楽曲を完全に自分の物としており、個性的で大変素晴らしい熱いライブを楽しんだことは何度もあります。)
そんな中、コバケンがチェコフィルとベートーヴェンの交響曲全集の録音を始めたと知って、一抹の望みを託して購入したのがこのSACDでした。

結果から言ってしまうと、アタリでした!!まぁ、私の想像していた演奏とは違った訳ですが…。

彼のチェコフィルの一連の演奏を聴く限り、大フィルや日フィルとは音楽作りそのものが違ってくるのは分かっていましたが、まさかここまで格調高い『運命』をやるとは思いませんでした。
冒頭の「運命の動機」は最後の1音を長く伸ばし一呼吸置いてから「次の動機」に繋げる、そんなに珍しくもない手法ですが、その後の展開は非常に気品のある運びとなっています。
テンポは抑えめでゆったりとしているのですが、適度にカンタービレが効いており、上で書いたC.デイヴィス盤とは趣の異なる、重厚さはあっても重鈍さは無い運びです。
よって、オールドスタイルとはいえ19世紀生まれの指揮者達と比較されるような重量感は無く、むしろ構築性や普遍性が際立っているように感じます。
第2楽章や第3楽章冒頭に見られる、要所でトランペットを強奏させて、鋭角的に楔を打ち込むように各フレーズを際立たせていくのは、コバケンらしい面白いアプローチだと思います。
終楽章でもテンポは意識的に抑えられており、提示部は反復を行っています。ここに至るまでに確固たる楽曲構築を行って来たため、この繰り返しは旧ブライトコプフ版の『運命』であっても説得力があります。
その後も安易なアッチェレランド等で全体の調和を崩してしまわずに、理性の効いた演奏が最後まで楽しめました。

録音に関しては、何より先ず残響が非常に長いです。確かにドヴォルザーク・ホールは音響の素晴らしいホールですが、この感じは二階席の先頭で初めて得られるような残響です。
一方、各楽器のセパレーションも抜群に良く、これは一階席の4、5列目まで…。いや指揮者の耳くらいの分離度です。
このアンバランスさが不自然な録音となっております。部分部分に目を向けたなら十二分に綺麗な録音ではあるのですが、エクストンにはもう少し全体調和の効いた録音を目指して欲しいですね。
CD層からSACD層に切り替えると、音が微粒子化し、ベールを一枚はがしたかのように聴こえます。音の余韻や消え方も非常に滑らかになり、長い残響がより透明に聴こえます。
この盤もSACD層で聴くべきだと感じました。


■クリスティアン・ティーレマン&ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(2010年収録)

最後に番外編として、2010年9月3日にNHK芸術劇場でTV放送されたティーレマンの『運命』に触れてみたいと思います。

ティーレマンという指揮者は、長い間ドイツ人が待ち望んだ、古き良き時代の巨匠の姿を垣間見させる生粋のドイツ人指揮者として現地で絶賛され、今後のドイツ・クラシック界を担っていく人物として大きな期待をされているようです。

ティーレマンは2010年の3月にミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団と来日し『運命』を演奏しています。この来日コンサートには私も足を運んでいました。
このコンサート、ワーグナーに関してはまぁ良かったのですが、メインの『運命』に関しては心に来るものはありませんでした。リズムが締まらず、流れが不自然で、音に深みもない。ついでにブラームスのVn協奏曲もイマイチで(ソロがレーピンなのに!)、最も心に残ったことはチケット代が無駄に高かった…という散々なものでした。

その約半年後、ティーレマンとウィーンフィルの『運命』が放送されることとなり、まぁタダならいいかーという軽い気持ちで視聴しました。
上のコバケン同様、旧ブライトコプフ版のスコアを採用した演奏は今となってはレアですので、期待したい気持ちも勿論あります。

しかし結果は、よりいっそうティーレマンの駄目な部分を認識するという形で終わりましたw。

先ず、第一楽章冒頭、観客にお辞儀をしたティーレマンは拍手も冷めないうちに直ぐに振り返るやいなや、急に演奏を始めます。このスタイルは来日ライブでも同じでした。
気になって少し調べてみたら、ティーレマンは、冒頭の動機は音楽の呼吸に素直に従えば別に難しくないという考えのようです。「考えすぎるから力が入る」と言っています。だから勿体ぶって溜めずに、スッと入っていきたいんでしょうね。
ここは練習通りのようで、オケ側も十分に対応し、頭も揃っているので問題ないでしょう。
その後の一楽章は速めのテンポでグイグイ突き進む運びです。要所では細かいテンポの変化を付けているのですが、ここに、まだ迷いが感じられます。C.クライバー風に行きたいのかフルトヴェングラー風に行きたいのか、何がしたいのか良く分からないのです。
第二楽章は一変して巨人の歩みを思わせる重鈍な演奏です。ここでは第一変奏、第二変奏と大きくルバートを掛けて、テンポも大きく変化させています。一楽章の細かな変化とは真逆です。
これを対比と見るか、ちぐはぐと見るかで評価が変わってきそうです。
第三楽章では、テンポをある程度速めてスケルツォに入ったかと思えば、トリオでまた極端に遅くなり、その後も細かく変化を付けながら、コーダを異常なほど不気味に演奏します。
ここまでを聴くと、一楽章の快速は何だったのか?二、三楽章との繋がりの不自然さが目立ってきます。
終楽章冒頭は、アタッカ部分を際立たせるように大胆にルバートを掛けてモタモタさせてから、一気に解き放ちます。三楽章の不気味なコーダとの相乗効果もあって、ここは非常に独創的だと思います。
ここからのティーレマンは、急に思い出したかのようにテンポを上げ、それが乗ってきた所で提示部のリピート!…これは無いでしょう!?このリピートはくどいだけで意味が無いように感じます。この流れなら省略した方が断然自然です。
その後も早めのテンポで、細かい表情付けはあるものの、大した捻りもなく徐々に構えを大きくしていき、時々思い出したかのような爆走の繰り返しです。

ティーレマンの『運命』で私が一番気に入らない所は、彼の『運命』がブロックを積み上げたかのようなぶつ切り構造であるところです。
この曲は、初めに示したように造形的に整理され尽くした構造美を誇ります。演奏家は大局を見て、全楽章を組み立てていかなければなりません。
ティーレマンの演奏は、ブロック単位ではそれぞれ素晴らしい『運命』像を誇ってはおりますが、その繋がりが不自然で、非常に流れが悪く、意味が伴わないのです。
現在の彼には、大局を見渡す設計眼が少し欠けているように感じます。




クラシックをある程度聴き込んだ方の中には、「今更『運命』なんて」と仰られる方が稀にいらっしゃいます。
しかし、『運命』は今後も変わらず「交響曲の王」として存在し、新たな解釈を取り入れつつ演奏され続けることでしょう。
そうなれば、また過去の偉大な指揮者達による『運命』が懐古され、その輝きを取り戻すことでしょう。
このようにして「運命の輪」は廻り続けるのかも知れません…。

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レス一覧

  1. 始めまして、ジュンと申します。
    私にとって、ベートーヴェンの交響曲。中でも5番の1楽章及び3番の2楽章は人間が創り出したものとは思えません。
    そこは『神』の領域です。

    byジュン at2013-01-19 15:54

  2. ジュンさん、初めまして。

    英雄の2楽章といえば、葬送行進曲ですね。

    これもトリオ部の長調では英雄の称賛、短調では英雄の苦悩、コーダ部では厳格さ、など非常にドラマティックな変化を有する楽章ですね。

    by裏庭の英雄 at2013-01-19 18:20

  3. 103系好きさん、こんばんは。

    そうですね、カラヤンは「楽壇の帝王」ですね。
    でも日記のタイトルを見て、皆様に色々想像して欲しかったので、私の狙いとしてはアタリですww。

    ディスク比較の方、お褒め頂き光栄です。
    今後も、もっと楽しい記事が書けるように頑張りたいです!

    by裏庭の英雄 at2013-01-19 19:24

  4. 裏庭の英雄さん、おはようございます。

    いつもすばらしい知識の量と感性で感心しております。
    理解の難しい部分もありますが、その方が興味もわきます。

    昨年はたまたまケンペとマズアの全集を購入していて、
    改めて聴く機会が多かったのですが、「5番は本当に無駄な部分がないなぁ」とは感じておりました。

    そういえば確かコバケンさんのチャイコフスキーはたしか何枚も買っていたので、もう一度聞き直してみようと思います。

    by矢切亭主人 at2013-01-20 05:48

  5. 矢切亭主人さん、こんにちは。

    ケンペの『運命』はミュンヘンフィルとのものしか聴いていませんが、なかなか、真の旨味が分かりにくい演奏ですね。
    全くの正攻法な演奏で力感自体は控えめなので爆発的な爽快感は無く、深く聴き込まないと味が見えて来ません。
    しかし、そこには確かに真のベートーヴェン像が内包されているという、深淵な演奏かと思います。

    マズアの全集は新旧共に未聴です。個人的に、この人はメンデルスゾーンとシューマン以外は信用していないのでw。
    しかし、確かマズア新盤の『運命』はギュルケ校訂版のスコアを使っていたと思います。
    この版の演奏自体が珍しいので、一聴の価値はありそうですね。

    コバケンのCDは、なかなか彼のライブの凄さを捉えているものが少なくて、ヤキモキしますw。
    チャイコの5番に関しては何種類も出ているのに、個人的には、まだ満足していませんww。
    個性があって良い演奏ですけどね。

    by裏庭の英雄 at2013-01-20 16:25

  6. 『運命』は、これはもうクラシック音楽の代名詞みたいなものですね。

    その意味で、子供の頃からさんざん聴かされていてちょっと乱暴に言えば「耳たこ」。それだけに、あれこれ買って聴き較べる気力もわかずかえって持っているのはごく少なくLPやCDあわせても2~3枚ではないでしょうか。

    最近、たまたま買い求めたナヌート/紀尾井シンフォニエッタ東京のCDが実にオーソドックスな演奏でほんとうに素晴らしい。ナヌートという指揮者は、マイナーですが実直な職人のようなひとで、おびただしい数の廉価盤に起用され「廉価盤の王」と呼ばれたそうです(爆)。

    byベルウッド at2013-01-21 14:18

  7. ベルウッドさん、こんばんは。

    確かに『運命』は耳たこですが、私は逆に、進んで聴く機会が多い曲ですかね。
    今回の日記は、少し啓蒙活動も兼ねていますww。

    『運命』は楽曲そのものがしっかりしているから、誰が演奏してもそれなりに聴こえる……かというと、そうでもないように感じます。
    聴いていられない『運命』というのが結構あります。

    さらに、20世紀の指揮者達はベートーヴェンは出来て当たり前でしたが、最近の指揮者はそうでもありません。残念なことです…。

    ナヌートという指揮者は存じませんが、「廉価盤の王」とは少し可哀想な称号ですねw。
    もっとも、廉価盤も一概にバカに出来ないですが。
    駅などで売られているロイヤルフィルの300円シリーズにだって、中には名演が含まれていますしね。

    by裏庭の英雄 at2013-01-21 19:34

  8. 裏庭の英雄さん、こんにちは。
    遅レス失礼します。

    SACDPの調子はいかがでしょうか?エージングも初期段階を終えて落ち着いてきた頃でしょうか。
    今回も読み応えのある日記ありがとうございました。
    クラシック歴の浅い私にはいつも勉強になります。

    運命は4楽章全ての構成が美しく、初めてまともに通しで聞いた時には終始鳥肌がたちました。
    POPS、ROCKしか聞いて来なかった私にクラシックの素晴らしさを教えてくれた重要な曲です。

    初めてまともに聞いたC.クライバー盤のインパクトが強く、未だに私のベスト盤です。(裏庭さんはクライバー苦手なのにすみません(^_^;))
    ヤルヴィは持っているのですが、小編成で違和感を感じたため殆ど聞いていませんでした。
    ティーレマンはBlu-rayの全集を持っていますが、悪くはないのですがあまり感動しませんでした。裏庭さんのおっしゃる通り繋がりが悪い気はします。
    これを期に手持ちを聞き直したいと思います。

    前回のムラヴィンスキーは今やっているHMVのセールでポチる予定です。入荷まで半月が待ち遠しいです。
    今回ご紹介された他の盤もボチボチと入手して行こうかと思います。
    ディヴィス盤が楽しみですね。

    今後も日記楽しみにしています!

    bykanata at2013-01-23 08:38

  9. kanataさん、こんばんは。

    SA-13S2ですが、鳴らし込みも進み、そろそろアンプ、スピーカーとも溶け合ってきたように思います。
    初めはバラバラに鳴っていた、マランツ、ラックス、タンノイの音が、調和して一つの個性を発揮し始めたとでも言いましょうか。

    C.クライバーですが、確かに私は、ベト4と魔弾くらいしか評価していませんw。
    ですが、勿論私と違う評価をなさる方がいらっしゃって当然だと思います。
    感性は十人十色ですので、評価も人の数だけありますよね。
    ここが、芸術の面白い所だと感じます。

    P.ヤルヴィに限らず、古楽やピリオド奏法の演奏には、ロマン主義的な演奏に慣れ親しんで来た聴き手にとっては、確かに違和感が付きまとうのかのも知れません。
    私個人としましても、あまり好意的に捉えることが出来ない部分も少なくありませんw。(というか苦手ですww)
    しかし、好き嫌いは別として、一つのアプローチとして受け入れなければいけない所は、出来るだけ受け入れるようにしています。

    ムラヴィンスキーやC.デイヴィスに興味を持って頂いてありがとうございます。
    CDを聴きながら、もう一度私の記事を読んで頂けたら、すごく嬉しいです!

    by裏庭の英雄 at2013-01-23 18:31

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