柳緑花紅
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オーディオと音楽会通いを続けて四半世紀、我ながらよく続くものだと思います。大型犬と小型犬のような息子2人の邪魔をかわしながら狭い部屋で楽しんでいます。

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日記

内田光子のシューベルト、あるいは魔女の呪文

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2018年11月24日

ファイルウェブのみなさま、いかがお過ごしですか。オーディオに絶好の季節、そして音楽会シーズン到来ですね。

みなさまの中にも行かれた方いらっしゃると思いますが、さる10/29と11/7、私とっては秋の恒例行事である内田光子の演奏会にいってきました。


内田光子を真剣に聴くようになったのはここ10年ほどです。きっかけは何だったのか?今にして思えば両親が内田の演奏会にいっては興奮状態になり、たまに会うと饒舌に感想を語るのに耳を傾ける、ということが度重なり、じゃあぼくも聴いてみよう、となったわけです。それ以来、取り憑かれたように通い、CDを聴き漁るようになりました。

今年はシューベルト縛りです。

10/29
ピアノ・ソナタ 4番 D.537
ピアノ・ソナタ 14番 D.784
ピアノ・ソナタ 20番 D.569

アンコール↓


11/7
ピアノ・ソナタ 7番 D.568
ピアノ・ソナタ 15番 D.840<<レリーク>>
ピアノ・ソナタ 21番 D.960
(後半から皇后陛下が御臨席)

アンコール↓



ナラティブに書くとシューベルトの曲さながら冗長(失礼!)になってしまうので整理整頓して簡潔に。

まったくの主観ですが、4,5番が伝統に則った「守」とすれば、14,15番は「破」、20, 21番は「離」の世界です。

テンポ、表現を含めた音楽のダイナミクスが半端なく大きいのですが、若い演奏家にありがちな力でねじ伏せる演奏ではなく音楽全体としてのまとまりは絶対に失われない。全体構造(解釈)がきちんとあり、なおかつ「細部に神が宿っている」とでもいうのでしょうか。単なる名人芸に陥らない、幽玄という言葉がしっくり来る演奏です。

うーん、結局私は何が言いたいのでしょう。音楽を言葉で表現するって難しいですね、、、

そういえば、昔読んだ村上春樹と小澤征爾の対談に内田に関する記述があったような

***
(『小澤征爾さんと、音楽について話をする』 小澤征爾/村上春樹 新潮文庫 2014 より引用)


小澤「(前略)でも不思議なのは、彼(グールド)が死んじゃったあと、そういう姿勢(ベートーヴェン演奏なんかでも対位法的要素を積極的に持ち込んでく、など)を引き継いで発展させるような人が出てこなかったことです。ほんとに出てこなかった。やっぱりあの人は天才だったのかな。彼の影響を受けた人はいるかもしれないけど、彼みたいな人はでてこなかった。だいいちに、あそこまで勇気のある人がいないでしょう。僕から見ると」

村上「いろいろと企んだ演奏をする人はいても、そこに本物の必然性というか、実体が伴っている場合は少ないですね」

小澤「内田光子さんなんかは、そっちの方というか、そういう面では勇気のある人です。アルゲリッチにもそういうところはあります」

村上「女の人の方がそういうところはいいんですかね?」

小澤「うん、女の人のほうが思い切りがいい」
***

再読して思い出しましたが、実は上に名前のあがった3人、私のCDラックの1~3段目の並びとまったく一緒なんです。

話を戻すと、今回の演目では、普段あまり聴く機会のない14, 15番が印象にのこりました。とくに15番の第2楽章のあるフレーズが魔女の呪文のように脳裏に焼きついて2日ほど離れませんでした。なお「魔女の呪文」とは7日の公演に同行してくれた同好の志のことばです。毎度のことながら、内田は演奏終了後の拍手喝采を浴びながら何やらつぶやいていますが、「あれは何を言っているんだろうね?」と問いかけたら「魔女が呪文を唱えてるんだよ(笑)」「ぼく(シューベルト)が見た夢を君も見なよ、って」

そうか、そういうことだったのか!

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