パグ太郎
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クラシック中心に聴いています。オーディオは手段と考えてはいるものの、気がつくと手段の魔力に取り付かれてしまうことも多く、日々修行をしております。

マイルーム

パグ太郎の部屋
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持ち家(戸建) / リビング兼用 / その他 / 16畳~ / 防音あり / スクリーンなし / ~2ch
10数年愛用したアンプが逝ってしまったので、久々の機器更新をしました。
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  • プリメインアンプ
    OCTAVE V110SE
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    QUADRASPIRE QAVM
  • RCA/BNCオーディオケーブル
    KIMBER KABLE KS-1020
  • 電源ケーブル
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    KIMBER KABLE PK-10Gold

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日記

ポゴレリチのピアノ あるいは、「美しいヌードの背中は脊椎が多い」について

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2017年09月09日

先日、「展覧会の絵」の原曲・編曲の思い出話を日記にしたところ、ポゴレリチが愛聴盤という方が複数おられて、驚いたり、嬉しかったりということがありました。実は、彼は私にとって特別な存在です。更に、イブラギモヴァの将来を心配する余計なおせっかい記事にも、その懸念の例示として彼を登場させるという思わせぶりなこともしましたが、中々、彼本人のことは書けませんでした。ちょっと重くなるので、それは趣味の世界に持ち込まないでという方は、ここで止めて頂いた方が良いかも。

「特別な存在」と書きましたが、残念ながら「でした」と現状では言わないといけないのかもしれません。でもそれは結論を急ぎすぎですね。彼との出会いから思い起こしていきましょう。

1981年のショパンコンクールで予選落となったことにアルゲリッチが抗議の意思表明として審査員を辞任したというセンセーショナルな逸話と、彼の見た目のよさや行動のエキセントリックさにのみ注目したマスコミの持ち上げ方を見て、またかと思ったというのが最初の記憶です(そういう話題で取上げられたピアニストが何人消えていったことか)。<ショパンコンクールでアイドル的存在になった頃の写真>
しかも、ショパンは私の苦手三大作曲家の一角を占めておりで、彼の演奏で「ショパンに開眼」ということも残念ながらなく、デビュー後、10年くらいは縁遠い存在でした。

本当の出会いは、ハイドンとスカルラッティでした。それも積極的に選んで聞いたのではなく、流れていたのを偶然聞いて、誰だろうと思ったら彼だったということです。そもそも、ショパンの破天荒な演奏で名を馳せた人間が、リサイタルの指慣らし曲とも言われるバロック・古典期を何故、CD収録するの?というのが、先ず驚き。そしてそれ以上に驚いたのがその演奏。整った古典の形は維持しているのに、でも決定的に何かが違う。

一つ一つの音が綺麗、均質、研ぎ澄まされた刃物の光とか、工作機械の精密な金属面とかを連想させる彼の音は、古典作品でありながら、抽象絵画やモダンアートを見るような印象を与えます。丁度、スーパーリアリズムの絵画は、伝統的な写実主義にも、単なる写真作品にもない、実物を越える、実物を破壊する世界観を提示しているのに似ているかもしれません。その美点を、より判りやすく聞き取ることができたのが、古典的なハイドンやスカルラッティの作品の方だったのかもしれません。一旦、その美質に目を向けるようになると、ラベルでも、ムソルグスキーでも彼独自の表現が展開されていて、古典であろうが、ロマンであろうが、そのピアノ演奏のための素材として曲があることに気がつきました。素材となる曲のオリジナルの様式は保っていますが、彼自身の表現を優先するためにオリジナルの何かが、微妙なバランスで壊されている。そのせめぎ合いが緊張感、ある種の魅力的な違和感を産んでいます。

ある人が書いていたのですが、構成的・静的な古典の美しさを追求したのがポリーニ、絵画に例えるとまるで新古典派のダビット。<レカミエ夫人(1800年)>

とことん感情の爆発と色彩の洪水を追求したのがアルゲリッチで、これはロマン派のドラクロア。<民衆を導く自由の女神(1830年)>

でもポゴレリッチは、新古典派の顔をしたロマン派であるアングルだと。<グランド オダリスク(1814年)>

確かにその通りだと思います。アングルは、一見、精巧さ緻密さ、構成美で表面的には古典的様式を保っていますが、実態はそうではありません。例えば、彼のヌードは背中のラインの美しさを描くために、解剖学的には有り得ない形になっています。ダビッドのほぼ同じポーズの正統な作品「レカミエ夫人」と見比べれば一目瞭然。アングルの「グランド オダリスク」は「脊椎が一つ多い」という非難を受けました)。それと同様、ポゴレリチも表面的には正統的な姿を保ってはいますが、自らの美意識をその形式的均衡に優先させる、そういう演奏です。だから、古典でもロマンでもない、現代芸術に通じる破壊的な美の再構築が行われていると感じます。

再現芸術である音楽演奏において、様式を維持しつつ破壊を行うというこの行為は、綱渡りのような危険な話で、彼がバランスを崩して足を踏みはずさないように支えていたのが、20歳以上年上のピアノ教師をしていた夫人だったのかもしれません。その彼女を96年に亡くし、精神を病んだ彼は表舞台から姿を消しました。10年の年月を経てやっと復帰してきましたが、CDリリースは殆どせず、アジア圏を中心にリサイタルを行っています。復帰後の彼の演奏を聴きましたが、以前の「原型を残した破壊」ではなく、自己の表現のために原型をとどめないまで変形を進めてしまっていて、古典的構築力はなくなっていると感じました。

もう一度、絵画の例に戻ると、90年代前半のポゴレリチは、ピカソの新古典期。自己の独自な表現を支える枠組みを歴史的伝統に求めている。<腕を組んですわるサルタンバンク(1923年)>

でも復帰後の彼はキュビズムのピカソで、その表現意欲・エネルギーにとって、支える枠組みは最早、不要(キュビズムから新古典へ移行したピカソの辿った道筋とは逆ですが)。<泣く女(1932年)>
キュビズムでしか表現できないものがあるのと同様、現在のポゴレリチの表現は、これはこれで彼にとっては必然で、一つの姿です。でも残念ながら私には理解不能なのです。

何故、彼が「特別な存在」だったのか。これは完全に個人的なエピソードです。ポゴレリチに出会った90年代前半は、近親者が一つの崩壊から再構築の苦しい歩みを進め、私自身は傍らで何も出来ずに見守るだけという時期と重なっていました。当時のポゴレリチの破壊と再構築が両立する演奏を聴き、こういう生き方もあり得るのだと思いました。それは、当方が彼に勝手に付託した救いを求める気持ちでしかありません。その後のポゴレリッチの、最愛の支えを失って崩壊する姿は、彼の音楽を支えにしていた者には決して見たくないシーンでした。そして長い年月を経て彼はピアニストとして復活しましたが、自分には理解できない変容を遂げていました。ある時期、強い思い入れを持って対面していた存在が別次元に飛びさって行った喪失感は今でもぬぐえていません。

個人的エピソードの方は、幸い、今、こうやって気楽な場で書き記すことができる状態にあります。振り返ってみると、最初は全く受け入れられなかった後に、出会いがあり、特別な存在にまで昇華したポゴレリチです。であれば、もう一度、再会のチャンスがあるかもしれません。今度、来たら聴いてみようかとも思います。

(今回は、重苦しくてすみません。おまけに思い入れが強すぎて、独りよがりな、いつにも増して訳のわからない文章になってしまいました。反省です。)

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  1. パグ太郎さん

    「グランド オダリスク」への非難は「一つ多い」どころか「三本多い」ではなかったかしら(笑)。

    私は昨年末にポゴレリッチを実際に聴きに行きました。パグ太郎さんの日記を拝見して、私がその時の鑑賞日記を掲載し忘れていたことに気がつきました。あらためて大遅刻の日記をアップしました。

    http://community.phileweb.com/mypage/entry/2408/20170910/56884/

    そこで私はポゴレリッチの演奏の感想として、曲の二面性、多様な要素のせめぎ合いを徹底的に追究する《分断化》《断片化》の追究なのではないかと書きました。おそらくパグ太郎さんの仰ることと同じことを言っているのではないかと思いました。

    byベルウッド at2017-09-10 11:29

  2. ベルウッドさん

    確かに、「3本分」が正しいですね。(うん十年前の美術史の講義の記憶のままに書いてしまいました。何事も確認が大切)

    ベルウッドさんのレスに気がつかずに、貴日記の方にレスをしてしまいましたので、ダブりますが、私も、同じことを感じたと思います。彼のシベリウス、聞いてみたいです。扉が開く鍵になるかもしれないと思いました。(扉の向こう側は怖そうですが)

    byパグ太郎 at2017-09-10 12:44

  3. Nederburgです。
    ポゴレリッチの精緻に作り出した「一音一音の音色」は私にとってもかけがえのないものです。先述のスカルラッチ、チャイコフスキーのピアノ協奏曲#1、ショパンの同#2、特に後者の第2楽章の美しさは、こちらが自分の息の音を止めてでも集中したいと思ってしまいます(聴くたびに息苦しくなる?)。

    オーディオ的には、鍵盤をから指を離す?際の音、アタックの後で音の消え去る際の音と響きのコントロールがすごい。これが私の「息を止めさせる」んだよね。

    さて、今回話題のスカルラッティとブラームスのCDジャケットはゲオルグ・ポゴレリッチと書いてありますが、兄弟がカメラマン?
    なかなか良い表情で撮れています。

    さて、最近の彼のリサイタル(↑と同じポスター)を聴きましたが、私にはなじみの無い曲ばっかりで、正直よく分かりませんでした。カミさんは「ウツ」がうつりそう、と洒落を言ったのか本質を突いたのか、鋭い感想を残してくれました。

    byNederburg at2017-09-16 01:11

  4. Nederburgさん

    レス有難うございます。

    確かに聴いていると集中してか、緊迫感か、息を詰めさせるものがありますね。ピアニストの指のコントロールってどうなっているのでしょう。

    ジャケット写真撮影は、息子(アリス・ゲジュラッゼ夫人の前夫との子供なので、年は近いはず)のゲオルギー・ポゴレリッチだという記事を読んだ記憶があります。

    byパグ太郎 at2017-09-16 08:52

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