パグ太郎
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クラシック中心に聴いています。オーディオは手段と考えてはいるものの、気がつくと手段の魔力に取り付かれてしまうことも多く、日々修行をしております。

マイルーム

パグ太郎の部屋
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持ち家(戸建) / リビング兼用 / その他 / 16畳~ / 防音あり / スクリーンなし / ~2ch
10数年愛用したアンプが逝ってしまったので、久々の機器更新をしました。
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日記

メリザンドとサロメ、見た目は違えども性格は瓜二つの姉妹について

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2017年11月14日

ドビュッシーの唯一のオペラ、『ペレアスとメリザンド』(初演1902年)と、R.シュトラウスのオペラ作曲家としての出世作『サロメ』(初演1905年)、全く印象の異なる二つの作品ですが、自分にとっては何かしら通じる所を感じる作品なのです。

異論・反論は当然で、ペレアスの世界は、陽炎のように儚い人物が、モノトーンで霧に覆われたような静かで物悲しい森と泉を彷徨っている、そういう印象です。方やサロメの世界は、ウィーン世紀末の金箔装飾・赤と黒のコントラスト(血と闇)の中、異国趣味とエロティシズムでむせかえるようです。確かに、描かれている内容に共通要素は殆どありません。(①M.ドニ『塔の花嫁』と②F.シュトゥック『サロメ』)

では、どこに「通じる所」を感じるのか。一つは、双方のヒロインのわからなさです。一般的によく言われる解釈では、メリザンドは水の精で、自らの固有の形がなく周囲にあわせて形を変え、己の固有の形=主体性・意思を持たない存在。そして、水の中に価値あるものを取り込み、水・霧のように消えてしまう、人間にとって理解することも出来ないし、近寄るもの全てに理不尽な破滅をもたらすような存在。よく『トリスタンとイゾルデ』と比較されるですが、自分でも制御できない愛の力(それは秘薬によるものであったとしても)に突き動かされてしまう人間らしさそのものがイゾルデにはあり、それは見るものに共感をもたらし、登場人物の悲劇性を高めてくれるものです。が、そのような共感を許さないような不可思議さがメリザンドにはあります。その不可思議な本質を見抜いているのは、殆ど盲目でメリザンドの美しさを目にすることが出来ない老王アルケルのみだというところも意味がこめられていそうです。

一方のサロメも、観客にとって主人公の心理状態を追体験し、共感することは殆ど不可能です。私自身を含めた圧倒的多くの観客は、美しいサロメを淫らな目で見つめ、裸同然のダンスを頂点とするそのエロティックな姿を期待しつつも、サロメ当人が自らの愛欲を満たす異常な姿(=聖者の生首への接吻)には怖気を奮って抹殺しようとするヘロデ王の目を通じて、このオペラ・演劇を見つめているのではないでしょうか。性的欲望を完全に隠蔽し、表層的にはその存在すら否定するビクトリア朝時代の英国社会に対する痛烈な批判として、原作者ワイルドはこの戯曲を提示したと思われます(当然の如く、英国での上演は不可能で、原作はフランス語でパリで初演となりました。しかも当初想定されていたサロメ役は、メリザンドの初演女優サラ・ベルナールであったという説も有ります)。(サラ ベルナール:森と泉のイメージとオリエンタル衣装)

この文脈でのサロメは、愛欲のまなざしを一身に受け、その視線の本質を鏡のように反射し見つめる側の自己認識を迫る超越的存在ですが、彼女自身には何の意思・意図も感じられません。そうである以上、そのおぞましい欲望が彼女自身の意思や主体性から発したものであっては、この話は成立しません。世間一般の主人公に対するイメージ形成に大きな影響を与えたビアズリーの挿絵に描かれている強い意思を持つ大人の女について、それが原作の表現するサロメとは別物であることにワイルドは不満をもっていたという話もあります。(いまや原作より有名な挿絵)

こう考えてみると、この二人の女性は、自らの強い意志に基づく、奔放な生き方で男を魅惑し、破滅に導くカルメンやマノンのような人間味のある悪女(ファム・ファタル=運命の女)とは別種の、人間の理解を超えた異界からの使者と考えれば、見た目やその棲んでいる世界は異なっていても、同類だと思えてならないのです。

では、この類似点が音楽作品として、どのような形で現れているのでしょうか。

恐らく、上で述べてきた様な存在をオペラで表現しようとすると、従来とは全く異なる音楽的手法が必要だったと思われます。それまでのオペラと言えば、人物の感情を歌い上げるアリアなどの部分の歌詞と、状況が進行していく部分の台詞が分離してしまっているのが普通です。いや、むしろ登場人物の愛情、喜び、怒り、嫉妬などの感情を、美しい旋律や歌手の技巧により、存分に見せ付けるアリアを歌い上げる場を作るために、作曲家は劇の進行を捻じ曲げたり、止めたり、そもそののストーリーを変えてしまったりということが当然だったりします。それが証拠に、主役がアリアを歌っている間は時が止まって居るかのように、他の登場人物は彫像と化すか、観衆と同じ目線で聞いているという不自然なことになります。また、オペラ公演でアリアを歌い終える度に拍手喝采で、時にはアンコール、それが終わって進行が再開という劇世界を中断する不思議なことが起きても、誰も文句を言いません。

ところが、二つのオペラは原作の戯曲をほぼそのまま、歌詞として歌手に歌わせています。その結果、音楽と言葉が途切れなく流れて行き、劇空間が遮断されることはなく、戯曲の世界観を音楽劇に移し変えられています。そのため、有名なオペラに付き物である、オペラ「****」からのアリア、二重唱、合唱というハイライト的な部分がこの二つの作品にはないといっても過言ではありません。単独で演奏されるといえば、ペレアスでは「私の長い髪が」ですが、あれはアリアとはいえませんし、サロメに至っては、歌ですらない「7つのヴェールの踊り」というオーケストラ曲です。また、歌の位置づけも、歌手の独唱をオーケストラが伴奏するというよりも、オーケストラの楽器の一つのように歌が織り込まれている様に感じます。

いや、そうではなく、逆です。この二人のヒロインが、自らの感情を表現するような人間的な存在ではない以上、アリアやデュエットをクライマックスとするような従来のオペラの作曲手法を取り得ないために、結果として上記のような形になったという方が適切です。この観点で見れば、人間の感情表出を延々と歌い続けるワーグナーとは、やはり対極にある作品と見ることも出来ます。この様に作曲手法という点でも、この二つの作品は類似しているのです。

因みに、サロメの作曲家、R.シュトラウスは、メーテルランクのペレアスの戯曲には関心を持っていて、支援していたシェーンベルクにオペラ化を勧めたり(1902年?)、サロメのフランス語版への音付け作業(1905年)に際してはドビュッシーのペレアスのピアノ譜を研究していたとか、ドビュッシーのオペラの上演に接した際(1907年)には、「音楽が主であって欲しい。控えめすぎます。音楽がすべてを押し流すべきであり、それは詩に追随するものであってはいけないのです。私はワーグナーの手法を信じています。『トリスタン』をご覧なさい。ドビュッシーの曲は音楽が不十分だと私は思います」という様な感想を述べていたという逸話があります。一方で、シュトラウスを賞賛していたドビュッシーはシュトラウスを評して「音響病」だと言ったとか。相互の表面上の言葉はなんであれ、双方、気になる存在であったのは確かなようです。

さて、この2曲、何時も聞いているのは、何故か両方ともカラヤン版です。カラヤンが発掘したベーレンスのサロメはこれが本格的メジャーデビューだったはずですが、繊細な叙情性と暗い力強さを兼ね備えたその声は、それまでのニルソンやリザネクが演じた悪女ぶり、異常性ばかりが強調されるそれまでのサロメ像を大きく変えた録音です。(ベーレンスと異常性を強調しすぎな?ニルソン)

一方、メリザンドに、ソプラノではなく軽めのメゾソプラノであるシュターデを選んでいるところがポイントでしょうか。やはり、メリザンドは美しく儚い、可憐なだけの存在ではない、危うい陰りと不可解さをその裏側に秘めている、その二面性をシュターデは良く表現しています。(カラヤンが理想のメリザンドと言ったシュターデ)

シュターデ、ベーレンス、双方とも、その不思議な、異世界の使者としての性格を表すのに最適の歌手だと思います。そして、歌手を楽器の一つとして、オーケストラの中に取り込んで一つの音楽に織り込んでしまうカラヤンの指揮は、何時ものことながら素晴らしいと思います。

(当然のことながら、上記とは全く異なる解釈もあり得ます。それについてはまた別の機会に)

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レス一覧

  1. パグ太郎さん、

    今回も非常に興味深く読ませていただきました。
    勉強不足で『ペレアスとメリザンド』については全く知識がなく主題のお話にはついていけないのですが、『サロメ』と聞いてちょっと反応してしまいました。
    クラシックは好きだけれど偏食がひどい私にとってはR.シュトラウスは相性が悪い作曲家のひとりでなんとか楽しめるのはツァラトゥストラの冒頭(冒頭のみです・笑)と この「7つのヴェールの踊り」。

    >…圧倒的多くの観客は、美しいサロメを淫らな目で見つめ、…

    ご多分に漏れず私もオーケストラ版の「7つのヴェールの踊り」をオペラの場面を思い浮かべながら聴いています。(笑)

    私はオペラの熱心なファンではないのですが、友人の影響でストラータスが好きになり、椿姫、道化師とこのサロメで見ています。サロメでは可憐さと狂気のバランスがちょうどいいように感じました。
    この舞台は演出とプリマによってで全く印象が違ってしまうので、いろいろな作品を見てみたいですね。

    主題とは外れるとりとめのないお話、どうぞお許しください。

    byK&K at2017-11-16 22:29

  2. K&Kさん 今晩は。

    レス有難うございました。

    >クラシックは好きだけれど偏食がひどい

    はい、私もそうなんです。日記に殆ど登場しないのは、シューマン・メンデルゾーン・ブラームスというドイツロマン派のど真ん中のお三方です。どうも相性が悪いです。

    ストラータス、綺麗ですよね。椿姫は私も好きです。サロメは彼女の声には辛いのでライブより、映画の方が良かったという話をどこかで見た記憶があります。ベーム・ウィーンフィルとゲッツ フリードリヒの演出を含め素晴らしかった記憶があります。すっかり忘れていました。

    本日記、続きがあって、全く違った解釈の演出についても触れてみようかと思っています。

    byパグ太郎 at2017-11-16 23:56

  3. パグ太郎さん、おはようございます。

    今回も楽しく読ませていただきました。
    実は、パグ太郎さんに触発されて久々に雑文を書こうかと計画していたのですが、実はその題材が「七つのヴェールの踊り」の予定でした(汗)
    パグ太郎さんの後では、何を書いても分が悪いですねぇ(笑)
    まあ、そんなスゴイ文章が書けるわけでもありませんし、手持ちの三枚のディスクの感想を書くだけのつもりでしたしヾ(゚Д゚ )ォィォィ

    ちなみに、私も結構偏食派でして、ショパン・ワーグナー・ブルックナーは苦手です(笑)

    >全く違った解釈の演出
    楽しみにしておりますので。

    byfuku at2017-11-17 06:08

  4. fukuさん お早うございます。

    レス有難うございます。

    >パグ太郎さんの後では、何を書いても分が悪いですねぇ(笑)

    いえいえ、私も感想文に、自分の妄想に尾ひれはひれをつけて、書いているだけです。是非、ご愛聴の「7つのヴェールの踊り」3種、教えてください!

    byパグ太郎 at2017-11-17 08:57

  5. パグ太郎さん

    確かに、戯曲台本に忠実であること、今では名作のはずの原作戯曲をオペラが喰ってしまったということ、象徴主義の詩的な言語感覚など、共通点は多いと思いますが、私にはメリザンデとサロメはずいぶんと対照的だという気がします。

    サロメは、主体的で自意識の象徴だと思います。聖書では、母親にそそのかされてヨハネ(ヨカナーン)の首を所望することになっていますが、ワイルドの脚本ではヨハネへの愛と誘惑を無慚なまでに拒否されその復讐として斬首を願い出るように改変されています。恋慕とそれが裏切られて理性と良識を喪失していく過程を強調しているのです。強い自我や自尊心ゆえに精神のバランスを崩していく近代女性の抑圧的な心理を描くというのがワイルドの文意だったと思います。それをシュトラウスが一大エンターテイメントに仕上げます。

    一方で、メリザンデはとても受動的でむしろ自我意識を映し出す《鏡》のような存在です。

    出生も年齢も何もかも不明で、透明で傷つきやすく、そよ風のようにあいまいでつかみどころがない。けれども《鏡》のように誠実です。まるで自身が「真実」そのものであるかのように。

    死の床にあってメリザンデが静かにつぶやくように反問します。

    「真実、真実…?(Verite, verite……?)」

    真実って…?
    それを知りたいの?
    それを知ってどうなるのかしら。
    それはいったいどこにあるのかしら。
    そんなものがほんとうにあるの?
    それは自分にもわからない。

    byベルウッド at2017-11-17 09:59

  6. オスカー・ワイルドは、とてもナルシストだったそうです。ナルキッソスは水面に映し出される自分の姿に自愛するのですが、メーテルリンクのメリザンデはそういう水の鏡のような存在という意味では、二つの作品の底辺に、近代的自我のそういうナルシシズムの不条理さが共通しているのかもしれません。ドビュッシーは、そういう象徴的で意味不明な台詞をそのまま音楽で内省的な響きのなかに包み込み、とても曖昧でアンチ・エンターテイメントなオペラにしてしまうのです。


    高年になるまであまりオペラになじまなかった私ですが、幸いフレデリカ・フォン・シュターデも、ヒルガルト・ベーレンスも、実物に接しています。

    シュターデは、メトロポリタン「フィガロの結婚」のケルビーノ。衝立の向こうで着替えるというちょっとエッチな演出にどきどきしましたが、軽やかで中性的な魅力が満開のソプラノで「自分で自分がわからない」の名唱はメリザンデ的ともサロメ的とも言えます。

    ベーレンスは、タングルウッドで小澤とボストン響による演奏会形式によるモーツァルト「イドメネオ」から。半ば一人舞台というようにしつらえた檀上で、エレットラの「狂乱のアリア」を歌ったのです。その歌唱はまさに憑依状態ともいうべきもので、思わず怖気だつようなドラマチック・ソプラノでした。誠実であろうとすればするだけ心神を喪失していく女性ということでは「狂乱」はサロメ的でもメリザンデ的でもあるのだと思います。

    byベルウッド at2017-11-17 10:04

  7. ベルウッドさん

    何時もながら、力作レス有難うございます。

    仰るとおり、ワイルドの原作に関する、正統的なサロメ解釈は、書かれている通りかと思います。原典となる(?)新約聖書では名前すらないヘロディアの娘からワイルドの作り出した人物像は、主体性と自意識を持った一つの人格であり、抑圧に縛られない欲望の表明を拒絶される過程で、その人格が崩壊し、狂気の陥って行く姿を描いている。恐らく、それが事実としての作家の意図だとは思っています。

    ただ、その上で、どうにも居心地が悪いのです。自己をサロメに投影したと思われるワイルドは、何故、サロメは圧殺する形で劇を終わらせたのか? 正統的解釈に基づくと、性的抑圧を振りほどこうとして失敗するサロメ=ワイルドは社会システムによって圧殺される運命だという悲嘆・絶望が主題になります。が、時代の寵児であり自己の嗜好と犯罪のぎりぎりの線を走りぬけようとしていた当時のワイルドが、その様な表明をするのは、似つかわしくない(というか、「面白くない」という個人的思いです)。(続く)

    byパグ太郎 at2017-11-17 19:44

  8. ベルウッドさん(続き)

    メリザンドが水の象徴であり、形=自己を持たない存在、覗き込むものの姿を反射し、内面を見せない存在というのはよく言われるとおりです。であるならば、サロメも見るものの欲望と抑圧を反射する鏡ではないかという勝手な解釈を加えてみたというのが今回の日記です。

    そうすることで、圧殺されるべきなのは観客側の視線であり、抑圧的な社会システムであるという、原作者らしい挑発的メッセージに解釈できないか? そう考えると、ビアズリーの挿絵が作り出した魔性の「運命の女」でもなく、ジェンダー論的解釈に傾きがちな「自意識を持つ自立した女」でもない、「第三のサロメ」が成立するのでは? そしてベーレンスのサロメはそう考えてもぴったりという屁理屈であります。

    で、次回は、正統的な「自意識を持つ女」としてのサロメで、もう一つ屁理屈をこねてみようかと考えております。(続く)

    byパグ太郎 at2017-11-17 19:46

  9. ベルウッドさん(続き)

    シュターデ・ベーレンスとも、残念ながら実演に接したことはありません。シュターデのケルビーノはカラヤン・VPO版で徹底的に聴き込みましたので、もう客観的に語ることすら出来ないかもしれません。

    ベーレンスのモーツァルトというのは全くの未聴でどういうことになるのか想像できないです。というか、振り返ればベーレンスはサロメ以外、ちゃんと聴いていないことに気がつきました。コメント拝見して、追いかけてみたくなってきました。

    byパグ太郎 at2017-11-17 19:47

  10. パグ太郎さん

    パグ太郎さんの視点からみるクラシック音楽観はとても貴重です。フランス音楽に傾倒されていると、確かにドイツロマン派のシューマン・メンデルゾーン・ブラームスは苦手なのも解る気がします。

    その境界線のウェーバーはいかがなんでしょう。リストとシューマンとの違いに、精神的な自立心と良い意味での開き直りが有るのではないでしょうか?

    私の場合は、シューマンはリート中心、メンデルスゾーンは真夏の夜の夢やスコティッシュ、ブラームスは、二番を代表とした交響曲。私はピアノ協奏曲は、演奏会でもよく聴きますがどちらもあまり好みではありません。

    サロメは何組か有るのですが、『ペレアスとメリザンド』は私はクリュイタンスだけです。カラヤンも有ったはずと探したのですが、DGやDECCAのオペラボックスには勿論なく、EMIのオペラボックスを発注しました。1万円台だったそのボックスも、品切れになったらあっという間に値上がりして、4万円台まで行ってました。世界中探して、一万円台で購入できましたが、海外からですから、まだまだ来ません。同じEMIの管弦楽の演奏は、4trのテープでは随分と有るのですが、まだ売っている内に購入しておかなければと思っています。

    パグ太郎さんのおかげで、弱かったフランス系の音楽に触れられるのは凄く嬉しいです。

    byGRF at2017-11-17 22:31

  11. GRFさん

    レス有難うございます。

    >精神的な自立と良い意味での開き直り

    確かにそうかもしれません。ドイツの作曲家は、ワーグナーが新大陸を開拓するまでは、ベートーベンの確立した枠組み中でもがいているような気がしてならないのです(一つ一つの作品では、個々にはすばらしいものは当然ありますが)。

    イタリア・フランス・東欧・ロシアの連中は、その枠組みとは別に、何らかの拠り所を持てたので、自立・開き直りが出来たとも思えます。リストはその出自から言って、ドイツという環境の中でも自立と開き直りが出来た稀有な存在とも思えます。

    そうは言っても、実際はご案内の通りの雑食性ですので、何でも楽しんでしまうのですが・・・・。逆にフランス物は当方にとっては雑食メニューの一つなのですが、余り語る方が少ないので、目立ってしまうのかもしれません。

    何れにしても、私の文章は、印象に基づく「無理やり解釈」ですので、こんな見方もあったら面白いかも程度で、楽しんで頂ければ幸いです。

    byパグ太郎 at2017-11-18 00:39

  12. GRFさん

    前レスで書き漏れがありましたので、追加です。

    ウェバーは確かに境界線で、「もがいている感」がなく楽しめます。もう一人ポスト・ベートーベンで、その枠組みから自立・開き直っているのが、シューベルトだと感じています。

    歌曲という独自の領域を開拓できたということも要因かもしれませんが、室内楽・ピアノソナタを聴いていると、古典派の構成なんてどうでも良いという「開き直り」が見え隠れします。それができたのは、やはりメロディー・メーカーとして、彼が真の天才だったことが、関係しているような気がしてなりません。このテーマ、いつか書いてみたいと思っていますが、中々難しそうです。

    byパグ太郎 at2017-11-18 01:23

  13. パグ太郎さん 

    その通りですね。シューベルトの偉大さは特別です。あの短い人生の中で、歌曲は勿論、交響曲やピアノ曲で、誰もがなしえなかった高みまで駆け上っていることです。また、20世紀をも予見させる新しい音楽を生み出しています。シューベルトのピアノ曲は、スリルに満ちています、

    ピアノ曲と言えば、ベートーヴェンも最後には突然変異のように曲調が変わりますね。しがらみから解き離れて高い空に昇華したみたいです。

    今日は、上野まで、メジューエワのショパンを聴きに行きます。冷たい雨が枯れ葉を落としている上野の山でメランコリックになりますか、それとも、白熱の演奏になるか楽しみです。

    byGRF at2017-11-18 07:22

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