パグ太郎
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クラシック中心に聴いています。オーディオは手段と考えてはいるものの、気がつくと手段の魔力に取り付かれてしまうことも多く、日々修行をしております。

マイルーム

パグ太郎の部屋
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持ち家(戸建) / リビング兼用 / その他 / 16畳~ / 防音あり / スクリーンなし / ~2ch
Phileweb登録後1年、気が付くとスピーカー導入していました(2018/6) 10数年愛用したアンプが逝ってしまったので、久々の機器更新をしました(2017/6)。
所有製品
  • スピーカーシステム
    GERMAN PHYSIKS HRS120 Carbon
  • プリメインアンプ
    OCTAVE V110SE
  • ハードラック
    QUADRASPIRE QAVM
  • RCA/BNCオーディオケーブル
    KIMBER KABLE KS-1020
  • 電源ケーブル

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日記

原田マハの『サロメ』を読んで、あるいは、「改作の誘惑は原作の力?」について

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2017年11月18日

前回日記のメリザンドとサロメのお話をしましたが、偶々書店で見かけたこの本についてです。

著者の原田マハは画家・画壇をテーマにした作品を数多く手がけている小説家です。そのため、この『サロメ』も、作家でも音楽家でもなく、画家ビアズリーの挿絵が主題となっています。原作者ワイルドや、初演者と想定されていた女優サラ・ベルナール、英語版翻訳者アルフレッド ダグラスは登場しますが、R.シュトラウスのオペラ化の話は一切触れられていません。また、パリが舞台にはなっていても、同時期に初演され話題になっていたメーテルリンクの『ペレアスとメリザンド』の話も登場しません。

ということで、この小説のテーマは、ワイルドの原作を完全に「喰ってしまった」格好のビアズリーの挿絵は、どうしてここまで強烈な印象を残す絵画作品になったか、その疑問についての謎解きになっています。(謎解きのネタばれの可能性もありますので、本書を読むお積りの方は、ここから先は、その後でご覧いただけると幸いです)

原田マハは、画家オーブリー ビアズリーの姉、メイベル ビアズリーを鍵となる人物として登場させます。<画家オーブリーと女優メイベルの姉弟>

彼女自身は実在の女優で、ワイルドの戯曲を演じたこともあるようですが、取り立てて歴史に足跡を残しては居ません。この実在の姉を利用して、著者はサロメの生まれ変わりを創造します。

・欲しいもののためには手段を選ばない
・近親相姦的視線
・血の味のする接吻
・ベールの踊りの後に、棲む世界(劇場)から抹殺される
・男を最後に破滅に導く

これだけ執拗に並べられれば、もう結構です、判りましたというしかありません。まさしく、ビアズリーの挿絵に登場するサロメのイメージを投影した、この小説の真の主人公です。この19世紀末版のサロメの生まれ変わりの働きの結果、弟である挿絵画家の心に、原作者ワイルドへの強い嫉妬と憎しみの感情が植えつけられます。その感情が、挿絵であるサロメの姿を変えさせ、原作以上のエネルギーを放射するに至ったというのが、原田マハの用意した答えです。<7つのベールの踊り、そしてワイルドも描きこまれた挿絵>

21世紀の日本に生きる原田が作り出したサロメの生まれ変わりは、強い自己の意思を持った、一家の経済を支える現代風の女性として描かれています。ワイルドの原作のサロメも、その様な性格もつ一人の女性であると原田は解釈しているのか、そうではなくて、姉弟が命を削って産みだした強烈な図像は、ワイルドの原作の意図を超えて、姉の性格さながらの意思を持つ「運命の女」のイメージをサロメに植え付けるに至ったのか、そこの所は明確ではありません。ワイルドへの復讐心を物語を推進する動機に置くとすれば、二つのサロメの性格の差を明確にして、オリジナルを飲み込む姉弟の共犯作という構造を作った方が、小説としては面白くなるのでは? 例えば、姉が自分の姿を挿絵に投影させていくように弟に仕向けるシーン、自分の作品に強烈な挿絵という形で憑り付いてしまった女の亡霊に怯えるワイルドの姿・・・想像するだけでも恐ろしい! などと、勝手に小説『サロメ』の改作を妄想している自分がいます。

元々ワイルドが企図したサロメも、自らの欲求に忠実で独立した自我を持つ女性であり、抑圧的社会倫理の枠組み(その意味では、洗礼者ヨハネも、淫らな思いでサロメを見つめるヘロデ王も、その枠組みを支える側の同類)から、自由になろうとするが、結局は圧死させられるという、もう一つのサロメ像があるのは確かです。オペラ演出に於いても、その様な解釈はあるはずです。突き抜けた例としては、少し前ですが二期会で演じられた『サロメ』(2011年、演出 コンヴィチュニー)では、再生した少女サロメが、社会的抑圧に捕らえられていたヨハネさえも救済し、最後は二人で手と手を取り合って、その枠組みから自由に飛び去るという、明るい未来への展望で締めくくられる『サロメ』という驚くべき解釈を示していました。
<二期会のチラシ「この世界で愛を見つけた」>
<同演出のアムステルダム公演(2009年) サロメとヨハネが手と手を取り合う衝撃の終幕>

同時代の挿絵画家、作曲家、そして今日の演出家、日本人作家(そしてそれを読んだ素人も)、皆、ワイルドの作品への改変・改作の誘惑に晒されているようです。120年近く経過しても、このようなお題を提供してくれる原作の作品の力なのでしょうか、それとも19世紀末と現代社会の抱える問題は相変わらず続いていることを示す証拠なのか、色々と考えてしまう、サロメの謎解き小説ではありました。

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  1. パグ太郎さん

    驚きました。そういう演出だったのですね。

    二期会の公演はチラシか何かで見ましたが、また「ヴェールの踊り」からどのように逃げるかの話しだなと感じて興味を引きませんでした。そもそも私は、このオペラがあまり好きではありません。どう妥協するかのくり返しでマンネリの域を出ません。まあ、怖くないお化け屋敷、脱がないストリップ(爆)みたいな興ざめで終わるのがオチだからです。

    それに対して、これはかなり大胆な解釈改変の演出ですね。

    今放送中の大河ドラマで、柴咲コウ演ずる直虎が高橋一生演ずる小野但馬守の磔刑で自ら槍を持って串刺しにして殺すという演出が話題になりました。出口の無い運命の極限に立たされた倒錯の愛の結末ということで、NHKにしてはずいぶんと大胆な演出でしたが、高橋一生人気もあってバカ受けでした。サロメとヨカナーンとの関係にもそういうねじれた愛憎の裏表を見るというのもアリですね。

    それにしても、そうなると「七つのヴェール」はどのように演じられたのでしょうか。もちろん下世話な興味もありますが(笑)、あの場面こそシュトラウス版「サロメ」の最大のネックだと思っています。あれを克服するにはそうとう苦労しそうですが…。

    byベルウッド at2017-11-20 11:27

  2. ベルウッドさん こんにちは。。

    レス有難うございます。バタバタしており、返信遅れてしまいました。

    >そうなると「七つのヴェール」はどのように演じられたのでしょうか。

    コンヴィチュニー演出の大前提は、サロメは抑圧された社会の中で唯一、そこからの離脱を願う「正常な人間」、それ以外の登場人物はその社会に絡めとられ、セックスと暴力とドラッグに溺れるか、社会全体から己を遮断し閉じこもってしまう(ヨカナーン)かのいずれかで、そちらこそが「異常な状態」だという考え方です。

    本演出でサロメは裸にはなりません。演出家コンヴィチュニーの言い分によれば、セックスがあふれかえる社会(=舞台の上)で、サロメが脱ぐ脱がないということは全く無意味ということのようです。また、ヴェールの踊りの前半は彼女自身は踊ることもしません。(続く)

    byパグ太郎 at2017-11-21 12:27

  3. ベルウッドさん(続きです)

    裸にもならず、踊りもしないヴェールの踊りは、何をするのか?

    サロメは抑圧から人々を解放するために、その力を発揮して他の登場人物を躍らせる、しかし、ヨハネだけはそれを拒絶します。絶望したサロメは人々を閉じ込めている密室に扉を描き、その戸を叩き開こうとします。それにつられて、他の人々も戸を描き外に出ようとしますがドアは開かず、絶望し、諦めた人々が息絶えます。そこから、終幕に向かってサロメ自身の回復と、その力によるヨハネの死と救済、そして愛を発見した二人の密室からの解放とつながって行きます。ここでのヨハネの斬首と接吻は一度死んで再生するために必要なプロセスであり、それを執り行ったのは社会の救済の道半ばで力尽き、その後、復活するという過程(=ヴェールの踊り)を経たサロメの力と解釈されます。

    それでは、サロメを最後に殺せと命ずるのは誰か? その最後の一声を発するのはヘロデ王ではなく、客席にいた観客の一人となっていました。この抑圧された社会を維持しようとし、解放を願うサロメを圧殺しようとしているのは我々自身ではないかという演出家の問いかけであることは明白です。

    20世紀初頭、神格化された聖者を斬首し接吻する作品を舞台に上げ、そのエロチックな挿絵を描き、ストリップのようなダンスと音楽を作曲することで、社会的に抹殺されるリスクは、想像を超えるものがあったのではないかと思います(マーラーはR.シュトラウスに危険だと言ったという話も)。その危険を冒してまでも、これを創り出したいという力、思いの源泉は何処にあったのかということをつい考えてしまいます。

    逆に何でもありの今日、サロメの7つのヴェールの踊りを消化することには別の意味で抵抗感があるのは事実です。この演出家は無理やりそこを解決しようとしているともいえますが、リスクを踏んでまでこれを表現したいという先人達のその力の源になっている「思い」の部分を掬い取るという一点においては、4人に何か共通のものがある様な気がしてならないのです。

    byパグ太郎 at2017-11-21 12:30

  4. パグ太郎さん

    とても勉強になりました。コンヴィチュニーの演出はとてもよく考えられていて斬新ですが、ここでは革命的と言ってもよいほどの解釈の大胆な読み替えがありますね。白黒というかポジネガの反転と言ってよいほどです。しかも、その読み替えが深い洞察によって発想されています。

    コンヴィチュニーが日本で話題になり、オペラ通でももてはやされるようになったのは2000年以降のことで、二期会の公演が大きなきっかけだったと思います。私は、気づくのも遅く、知るようになってからも、なかなかこの演出家の素晴らしさを実感することがありませんでしたが、昨年のライプツィヒ歌劇場で目の当たりにして感服しました。

    彼としては比較的古典的なプロダクションだとは思いますが、至る所に新鮮な演出発想があってとても楽しい「ラ・ボエーム」でした。

    http://community.phileweb.com/mypage/entry/2408/20160113/50005/

    byベルウッド at2017-11-22 11:46

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