パグ太郎
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クラシック中心に聴いています。オーディオは手段と考えてはいるものの、気がつくと手段の魔力に取り付かれてしまうことも多く、日々修行をしております。

マイルーム

パグ太郎の部屋
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持ち家(戸建) / リビング兼用 / その他 / 16畳~ / 防音あり / スクリーンなし / ~2ch
Phileweb登録後1年、気が付くとスピーカー導入していました(2018/6)。所有製品はHRS130ですが、製品DBに登録がないので、一番近いもので代替しています。 10数年愛用したアン…
所有製品
  • スピーカーシステム
    GERMAN PHYSIKS HRS120 Carbon
  • プリメインアンプ
    OCTAVE V110SE
  • ハードラック
    QUADRASPIRE QAVM
  • RCA/BNCオーディオケーブル
    KIMBER KABLE KS-1020
  • 電源ケーブル

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日記

冬を迎えて『大地の歌』を聴く、あるいは、無常観の東西格差について

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2017年12月04日

晩秋といいますか、初冬に入って、あっという間に日が暮れ、色づいていた木の葉が寒風に攫われだすこの季節になると聴きたくなるのが、マーラーの『大地の歌』の終曲、第六楽章『告別』です。

冒頭の、大気を震わすような、重苦しく、暗く冷たい銅鑼(タムタムと表記するよりこの漢字表記が気分にあうのです)の呻るような響きは、厳しく長い冬が近づいてくるその足音のようです。そして、その予兆に怯えながら身を縮めて歩みを進めると聴こえてくる、寒風に煽られて飛ぶ鳥の侘しい叫び声。この導入部だけでも、軟弱者の私は、外に出ることすら億劫になってしまいます。(一方で、世の中はクリスマスのイルミネーションに、ベートーベンの歓喜の歌の季節でもあるのですが)

この曲について語るときに、作曲当時のマーラー自身の伝記的事情と重ね合わせることが多く見受けられます。すなわち、五歳の愛娘の病死、妻の不倫、自身の心臓疾患の宣告、ウィーン国立歌劇場音楽監督からの退任、メトロポリタン歌劇場監督就任を企図した渡米の不調、これだけのことが一度に降りかかれば、人生に絶望し、厭世的になるのも当然かもしれません。

この厭世観、あるいは本当に死に直面した絶望感を、『大地の歌』全曲のテーマとも言われる「生は暗く、死もまた暗い」という第一楽章の詩句のそのまま文字通りに、音楽に表現した様な演奏は、これでしょうか。

先ず、歌っているのがF=ディースカウ。二人の歌手が各楽章毎に交互にソロパートを歌うこの曲で、ソロが二人とも男声では単調になるので、アルトとテノールという組み合わせも良いですが、一段照明を落として、寒々としたモノトーンの墨絵のような空気を作るには、やはりバリトンが適しています。F=ディースカウの絶望感を切々と歌い上げる力には何時もながら圧倒されます。
そして、バーンスタイン・ウィーンフィル。この組み合わせは普段、余り聴かないのですが、この録音だけは文句のつけようがありません。冒頭から繰り返し登場する、銅鑼とそれに呼応して地を這うように長く響く低い弦・管楽器による場の支配力、そこを聴いただけでも、この世界に取り込まれてしまいそうです。そして、英デッカの録音(1966年)が、また素晴らしい(この頃はまだ、CBS専属契約前だった?)。

一方で、冷静になってこの曲の歌詞を見てみますと、決してそこまで絶望的な世界でもないのではないかと、感じることが多々あります。この歌詞は、中国の唐の時代の漢詩(という表現はあっているのでしょうか?)が、フランス語・英語訳されたものを基にドイツ語訳した詩集を、マーラー自身が作曲にあたり改変したという複雑な工程を経ているそうです。その過程での誤訳や意図的改変が積み重なっていて、それを厳密に見ていくと話を難しくしなってしまうので、端折って言ってしまうと、オリジナルの唐詩の厭世観・無常観は、もう少し遊びがある世界で、その印象は、この歌詞にも色濃く名残っているという気がするのです。

唐代の詩には「地位も名誉も財産も永遠に続くものではない、そんなものに汲々とするよりも、自然に触れ親しみ、詩を吟じ、酒を酌み交わすことの方が優れた生き方だ」という価値観が繰り返し、繰り返し謳われています。そのどの部分が表に現れるかで、自然賛歌にもなり、痛飲万歳にもなり、世の無常への嘆きにもなり、失脚への慰めにもなり、役立たないことへの賞賛にもなるのですが、言っていることは共通。で、重要なのは、彼らが決して仙人のような世捨て人ではなく、地方の役人から中央官僚まで、位や役割は様々でも宮仕えをし、実態は政治や外交、あるいは戦場のドロドロした世界に生きているのが殆どだということです。そして、詩作は、その様な世界から実際には抜けだせないための、代償行為として、逆の生き方への憧れとして行われている、あるいは、本当に人生の逆境に陥った時でも、科挙に受かって汚い政治にまみれるよりも、清貧で自然の中で遊ぶ方が、上等な生き方だという、優越感・やせ我慢・遊び心を表出するものとして行われているのではないかと思えます。

唐詩で謳われているのは、心から希求しているものが手に入らない、あるいはそれを永遠に失う、そのことへの悲嘆・絶望ではなく、今の自分を成り立たせている世俗の垢から逃れられたら良いのに、でもそれは現実には無理という感傷なのではないかと思います。この感覚は『大地の歌』の歌詞の日本語訳を見ても、そのまま受け継がれています。マーラーが作曲時に、死期を悟り、愛情にも、指揮者としての仕事にも空しさと絶望だけを感じていたのか、そうではなく、東洋的な無常・厭世・清貧の世界に、ままならぬ現実との心のバランスを求めたのか、本当のところは良く判りません。

そういった無常観に基づく感傷という、日本人の大好きな「侘び寂び」に近い演奏は? と思って探したのですが、そういう演奏に出会えていません。バーンスタイン版での、冷たい冬や死、暗闇、そういったものが圧するように迫ってくる銅鑼の響きの代わりに、どこかの山寺の鐘の音が、夕闇が深まる中、侘しく響く程度で納まっていて、アルトの声で、やがて松の梢にかかる銀の月を愛でながら、空しく友を待つ寂寥感、というのが本来の詩の内容を伝えてくれるような演奏をご存知であれば、是非、ご教授ください。そういう演奏であれば、寒い中でもコートを羽織って、近所の公園のライトアップでも風流に見に行こうかという気にもなるのですが。<ご近所の大田黒公園の恒例ライトアップ:照明を当てられた紅葉が、漆黒の池に写り込んで神秘的>

ロマン主義の放浪・さまよえる若人にしても、ニヒリズムにしても、東洋の無常と近くて遠い、もどかしさを感じつつ、結論のない日記となってしまいました。

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  1. パグ太郎さん

    これはまた難しいテーマに挑まれていますね。

    すなわちマーラーあるいは後期ロマン主義に横溢した「世紀末」的ペシミズムと、東洋…というより日本の美学として定着して無常観、そしてその中央に位置する中国唐代の古典漢詩の厭世観の違いということでしょうか。

    日本のクラシック鑑賞は、二十世紀の演奏家たちの「世紀末」史観によるマーラー演奏に完全に支配され刷り込まれています。そのために、この漢詩から迂遠な翻案をたどったテキストによるこの曲の歌詞と音楽びどこか過剰なペシミズムを中国や日本の伝統的厭世思想や無常観に無理やり当てはめてしまい混乱するのだと思います。

    杜甫も李白もあるいは、最終楽章「告別」のベースのひとつとなった王維も、政治的には左遷や流刑の憂き目に遭い阻害され挫折した詩人たちであり、共通して言えるのは安禄山の乱による戦乱と荒廃に翻弄されたことです。その享楽主義も隠遁や清貧、友情や義憤もその体験と老子思想の影響を強く受けています。

    一方で、西欧では宗教改革以来の宗教権力の没落と混乱、封建領主と王権の勃興と興亡、革命と帝国主義戦争による殺戮を繰り返していたのが二十世紀半ばまで続いていたということです。そういう同時代への悲観的思想が文学や音楽その他の芸術の中核にあったのだと思います。翻案漢詩も二十世紀の主流演奏家たちも、原詩とは違う感興にとらわれています。

    日本の近代化とそれによる伝統思想の深化、西欧キリスト教文化との交流、世界への発信は、西欧の哲学者たちの理解と共感を広げ深めていきました。キリスト教者あるいは実存主義者たちの彼らなりの無常観は次第に普遍化しつつあるのだと思っています。

    そういう新しいマーラーを感じさせたのがブーレーズです。もちろん、アナログ時代以来の伝統的マーラー愛好家からはひどく不評であることは百も承知です(笑)。

    http://community.phileweb.com/mypage/entry/2408/20130903/38978/

    byベルウッド at2017-12-05 00:34

  2. こんばんは

    これはパグ太郎さんのリクエストということではないのかもしれませんが。。。

    最近聞いたギーレンの「大地の歌」のコルネリア・カリッシュが私のお気に入りです。あんまりビブラートが目立たない・決然とした感じがしない歌唱で、ふわっと聞けてしまいます。。。オペラチックではないのが、ちょっと「松の梢にかかる銀の月を愛でながら、空しく友を待つ寂寥感」に近いかなぁ~などと思ってしまいました。メゾソプラノではありますが、「さすらう若人の歌」などではアルトとクレジットされているので、アルト的かな~とも思いまして。。。「山寺の鐘の音」は、やはり入ってません(笑)が、銅鑼の響きの抑制された感じはあります。。。

    byゲオルグ at2017-12-05 00:52

  3. ベルウッドさん

    >これはまた難しいテーマに挑まれていますね。

    先日は有難うございました。感想は改めて次回日記にて書かせていただきますが、当方の趣味嗜好を完璧に把握されたプログラミングに感激いたしまして、お返しというにはおこがましいのですが、ベルウッドさんのご専門領域に関わる(かする程度ですが)お題で、無謀にも日記にしてみました。日記文末に有るとおり、難しすぎて手に余るというのが正直な所です。

    日本人が、唐の文化を輸入し日本文化に吸収転換させて行った長い歴史があるわけですが、唐詩の政治的背景を抱えた厭世観が、方丈記・徒然草・奥の細道・・・に連なる詫び寂び文化に転じたり、安氏の乱の長恨歌が源氏物語に転じたりという様に、その過程で上澄みの空気感だけが残ったという素人印象を持っています。

    一方で、第一次世界大戦前夜の欧州というのは、キリスト教と合理主義という回転数の違う両輪を何とかバランスを取りながら中世以来、走り続けてきた、が、その自分たちの世界観が崩れ落ちる寸前に来ている、そういう絶望感が蔓延する中での、最後の一花が咲乱れた時期だったと思います。しかし、それを享受する日本人の側は「西洋の道具で大国になる」という富国強兵・経済成長神話の百数十年を過ごしてきたという真逆の社会的心性にあり、「世紀末」という言葉だけがアクセサリの様に使われただけではないかと感じてしまいます(失われた20年は近いものがあるのかもしれませんが、それでは余りに底が浅い)。

    このマーラーの『告別』は東の題材を用いて、間接的に日本的心性を覚醒させはするものの、耳に聴こえてくるのは、それとはそりの合わない音楽表現で、もっと深いところを揺すぶって来る、そういう「ちぐはぐになってしまう」という感覚があるのです。日記では問題を途中で放り出して、詫び寂びに遊ぶ日本人感性に近い演奏はないものかという逃げに走ったという次第であります。

    byパグ太郎 at2017-12-05 12:02

  4. ゲオルグさん

    レス有難うございます。

    ギーレンは大地の歌、録っていないかったと思い込んでいました。確かに、マーラーの他のナンバーで聴いたギーレンであれば、バーンスタインとは真逆でしょうね。コメント頂いた様子では当方希望に近いかもしれません。(本当に、「山のお寺の鐘がなる」のでは蝶々さんになってしまうので、「抑制」で十分です:笑)

    早速、ポチろうとしたら17枚組みでびっくり、価格見て更にびっくり。

    byパグ太郎 at2017-12-05 12:03

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