パグ太郎
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クラシック中心に聴いています。オーディオは手段と考えてはいるものの、気がつくと手段の魔力に取り付かれてしまうことも多く、日々修行をしております。

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パグ太郎の部屋
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持ち家(戸建) / リビング兼用 / その他 / 16畳~ / 防音あり / スクリーンなし / ~2ch
Phileweb登録後1年、気が付くとスピーカー導入していました(2018/6)。所有製品はHRS130ですが、製品DBに登録がないので、一番近いもので代替しています。 10数年愛用したアン…
所有製品
  • スピーカーシステム
    GERMAN PHYSIKS HRS120 Carbon
  • プリメインアンプ
    OCTAVE V110SE
  • ハードラック
    QUADRASPIRE QAVM
  • RCA/BNCオーディオケーブル
    KIMBER KABLE KS-1020
  • 電源ケーブル

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日記

ベルーチャ弦楽四重奏団で聴くショスタコーヴィッチで、オーディオの潮流に乗りそこねた悲哀を癒す

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2018年04月23日

新譜が出れば目をつぶって買うことにしている演奏家がいくつか有ります。その内の一つ、ベルーチャ弦楽四重奏団(BSQ)が、ショスタコーヴィッチのピアノ五重奏(ピアノはアンデルジェフスキ)をリリースするというので、予約して待ち構えていました。
ところが、CDの納期延期のお知らせが・・・。それでもAppleMusicでは既に公開されています。早く聴くことが出来るのは嬉しいものの、CDを買うという行為自体が、時代の流れから取り残された感があり、何だか複雑な心境です。

この「社会の流れについていけていない」という苦い心持ち、そういう気分の時に聴くのにピッタリなのが、ショスタコービッチかもしれません。大勢に抵抗しても勝ち目が無いという諦めと恐れ、最後の一人になってもという虚勢、その実、ちゃっかりと体制に順応して(配信サービスを利用して)いる後ろめたさ、そもそもクラシック音楽愛好趣味自体が絶滅危惧種だからと笑いとばす開き直り・・・・。いや、未だにCDを買っているからといって、KGBがやってきてシベリアの強制収容所送りになるわけでは無いので、こういう比較は不謹慎ですね。

という冗談はさておき、期待のBSQ、AppleMusicで聴いてみても、相変わらずの素晴らしい演奏です。この作曲家の一筋縄ではいかない複雑な心理状態が、次々に入れ替わりながら錯綜するように浮かび上がってくる、そういう曲の特性が見事に表現されています。

ショスタコーヴィッチについて語る場合、ソ連という強権的な国家権力との関係において、その時々で彼がどのような状態に置かれていたのか、その葛藤に中で何を表現しようとしたのかという視点に話題が集中することが殆どです。冒頭の私の冗談もそれにのっかているに過ぎません。でも、ソ連が崩壊して既に四半世紀が過ぎた今日でも、その体制に迎合したとか、それに抵抗したとか、或いはその両天秤だったとか、そういう数々の事実認定の試みがあり、そしてその「事実」に対する東西・左右双方の視点からの「価値評価」がされています。こういう伝記的な楽曲研究は、それはそれで面白いもので、それが全く意味が無いとは申しません。でも、彼の政治的立場をどのように聴き手である自分に投影するか、ソ連という国や体制に対して個々人がどのような姿勢でいるのか、そういう問題設定自体が、今を生きる人間にとって切実な現実、意味のある問いかけではなくなっています。
(死後直後に出版されたインタビュー『回想』は、その反ソ的内容で衝撃を与え、今でも偽書という説があり。そして今年になって出版されてた『引き裂かれた栄光』は、国家と芸術家の関係を事実として丹念に拾う努力をしています)

それにも関わらず、ショスタコービッチの音楽は、今日でも、こうやって光を放ち続けていて、コンサートでも録音でも新しい演奏が生まれ、人々が喜んでそれを聴いている・・・。彼の置かれた政治的環境がどうのこうのいうことを全く知らないし、関心すら無い世代の人々の心にも、その音楽が届いている。そのことにも、そろそろ光を当ててもいいのではないかとも思います。妙な例えですが、ナポレオンをいかに評価するか、市民革命にどういう態度で臨むのか、21世紀の今、それについて態度表明する必要性を全く感じない問題です。その一方で、それが人生を左右する大問題だったその時に作曲され、それに関わるメッセージを込められた、ベートーベンの交響曲第3番を、未だにその文脈でのみ語っているようなものではないかと。ショスタコーヴィッチも死後43年、漸く時代が、そいうフェーズに進んできて、時代の文脈を超えた作品自体が持つ力があるということが明確になってきたのかもしれません。そして、BSQのこの演奏は、そういうことを強く感じさせるのです。

ショスタコーヴィッチにつきものの言葉、社会・体制との葛藤、そこから生じる絶望や孤独、アイロニー、哄笑。そういうことは、彼の背負った時代背景に固有なものではなく、人間が生きていく上で、深刻度の差はあっても、必ず直面するものであることは言うまでもありません。BSQの演奏を聴くと、どんな作曲家であっても、時代とか、個人の置かれた状況とか、そういう事情を剥ぎ取って、音楽が提示している心情だけに絞り込んで、高純度にして突きつけてくる、そういう印象を持つのです。文学的ではない、余計なことは語らない。この傾向は、彼らの師匠であるアルバンベルク弦楽四重奏団にも既にありましたが、その純度というか、磨きこみ方のレベルが更に高まっているように思えます。

その結果、彼らの演奏は、ベートーベンの弦楽四重奏曲も、シェーンベルグの現代的作品も、そして癖の強いショスタコービッチも、古さ・新しさ、難解さ・平明さにおいて、ほとんど差を感じさせません。抽象度・純度の高い演奏はこうなるかも。
(新ウィーン楽派でもベートーヴェンでも純度の高さは驚かされます)

時代と風土、個人の生涯と民族の歴史が濃厚に反映されたコテコテの演奏も大好きですが、こういう演奏を前にすると、敵わないなと感じてしまいます。ショスタコーヴィッチにも、この形の演奏が出てくるために必要とされる時が流れたということなのかもしれません。

この曲の愛聴盤といえば、リヒテルとボロディン弦楽四重奏団の名演(1983年ライブ録音)です。
この演奏を聴くに際して時代背景を忘れ去ることは、やはり適切ではありません。父親をスパイ容疑で処刑されたピアニストと、創立時のリーダーを亡命で喪失しながらもメンバーを入れ替えつつキャリア積んできた弦楽四重奏団が、あのショスタコーヴィッチをどういう思いで演奏しているのか。そして1983年とは、米国大統領レーガンがソ連を「悪の帝国」と名指ししたり、ソ連のミサイル防衛システムの誤動作が起き、核戦争まで進んでも不思議ではなかったという事件があった、そういう年です。リヒテル・ボロディンSQ盤を聴くと、それらの事々の重みに思いを馳せ、演奏の中にその陰影を探すことが止められなくなってしまいます。それに対して、アンデルジェフスキ・ベルーチャSQの新盤は、その呪縛から解放してくれる、全く対照的な演奏なのかもしれません。

ということで、この20世紀の室内楽曲を代表する名曲の、時代を画するような演奏を聴きながらの感想としては、あまりに軽過ぎるのですが・・・・「強制収容所のことは脇に置いて、ハイレゾ・ネット時代に取り残された悲哀を感じつつ、この録音を聴くことは、あながち不謹慎なことでもなかったのかもしれない」だったのです。

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  1. パグ太郎さん

    ショスタコーヴィチほど、政治的な文脈の中で語られ、そのことに翻弄されてきた作曲家はいないでしょうね。

    戦前には西側の反ファシストの熱狂に持ち上げられ、終戦とともに東西冷戦で醒めきった評価がされ、雪解けとともに再び反スターリニズムの反体制あるいはポグロム告発の人道主義で復活を遂げ、やがて、その「証言」によって面従腹背の苦渋の政治人生が西側の自由主義に衝撃を与えます。

    そして、その度にその音楽解釈も変化します。有名な交響曲第5番終楽章のテンポなどかなりの変転を繰り返します。反スターリニズムと社会主義プロパガンダがない交ぜになったバーンスタイン、亡命者が相次いだ時代のビシュコフやアシュケナージ、そして、現代とずいぶんと曲の印象は違います。けれども結局は、作曲者と同様に一貫して体制内にあったムラヴィンスキーが最も音楽的に純化されているような気がします。

    ショスタコーヴィチというと、いつもオイストラフのことを思い浮かべてしまいます。

    オイストラフも(そしてリヒテルも)、ムラヴィンスキーと同じように一貫して体制内にとどまっていました。音楽的に純粋であると同時に、こうした人たちにはある種のリアリズムがあるように思えます。

    byベルウッド at2018-04-26 09:38

  2. 吉田秀和さんのエッセイ(「新・音楽展望 1994-1996」)には、オイストラフが語ったという話が引用されています。

    『私は君たちみたいに偽善家ぶって彼(注:ソルジェニーツィン)を泊めたりしない。正直言って、恐ろしいからだ。…運命を決するドアのノックや車のとまる音を聞くたび、どんな怖い思いをしたか、…エレベーターが昇りだし、ついに私たちの階で止まった。私たちは耳をすませ、活きた心地もしなかった。永遠と思われた時間が過ぎたあと、向かい側のベルの鳴るのが聞こえた。その瞬間から、私は自分が闘士とは全く縁のない人間だと悟ったんだ』(「運命が戸を叩く音」)

    ソルジェニーツィンとは、ソ連の反体制文学者のことで、1970年にノーベル賞受賞、74年にソ連から追放されましたがソ連邦崩壊後に帰国を許されています。ロストロポーヴィチは、危険を顧みずにこの反体制文学者をかくまったのです。

    吉田秀和さんは、単行本として発刊したときに後記としてこうつけ加えています。

    「ある時、あるソ連出身の音楽家に、このエビソードを話したら、『ロスロポーヴィチにそれができたのは、彼のうしろに有名なパトロンがいたからで、あわれなオイストラフにはうしろだては一人もいなかったんだ』といわれた。そうときいて、私のオイストラフに対する尊敬の念は一層強くなった。」

    「運命が戸を叩く音」とは、ベートーヴェンの交響曲のことではなくショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番の第3楽章パッサカリアのティンパニの音のことです。オイストラフは雪解け後の55年にムラヴィンスキーとこの曲を初演しています。



    音楽的な純粋さと時代のリアリズムは、一見すると矛盾するようですが、ともに今後とも演奏解釈の根幹として生き続けるのだと信じています。

    byベルウッド at2018-04-26 10:12

  3. ベルウッドさん

    ショスタコーヴィッチへの熱い思いがこもったレス有難うございます。

    時代のリアリズムの中において初めて聴こえてくるものがある、或いは時代のリアリズムが嫌でも響いてくる演奏がある、確かにその通りですね。ベルウッドさんなら、リヒテル(または、ムラビンスキー)の演奏で、そのことを語って頂けると考えていましたが、オイストラフというのは想定外でした。

    私もそういう演奏に惹かれつつも、その一方でベルーチャの様な演奏にも嵌ってしまいます。ヴェルの演奏でも民俗的な匂いのするものと、洗練さを極めるようなものの間で振り子のようにフラフラしていることを日記に書きましたが、今回も同じで、どっちつかずになってしまいます。やはり雑食・欲張りなのですね。

    byパグ太郎 at2018-04-26 22:48

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