パグ太郎
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クラシック中心に聴いています。オーディオは手段と考えてはいるものの、気がつくと手段の魔力に取り付かれてしまうことも多く、日々修行をしております。

マイルーム

パグ太郎の部屋
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持ち家(戸建) / リビング兼用 / その他 / 16畳~ / 防音あり / スクリーンなし / ~2ch
Phileweb登録後1年、気が付くとスピーカー導入していました(2018/6) 10数年愛用したアンプが逝ってしまったので、久々の機器更新をしました(2017/6)。
所有製品
  • スピーカーシステム
    GERMAN PHYSIKS HRS120 Carbon
  • プリメインアンプ
    OCTAVE V110SE
  • ハードラック
    QUADRASPIRE QAVM
  • RCA/BNCオーディオケーブル
    KIMBER KABLE KS-1020
  • 電源ケーブル

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日記

フェルツマンのバッハを聴きながら、自然の様々な顔に思いをはせ、犠牲を悼む

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2018年07月12日

ウラディミール フェルツマン演奏のプロコフィエフのピアノ曲集をOrisukeさんがご紹介されていました。
フェルツマンといえばバッハのパルティータの落ち着きのある美しい演奏が印象的なピアニストで、癒し系バッハを聴きたくなるとシフを取るかフェルツマンを選ぶかというような存在です。癒し系ロマンティストというイメージと、先鋭的な皮肉屋、プロコフィエフの意外な組み合わせに驚きもしましたし、興味を引かれていたのです。が、某ECサイトのCD-Rの表記に躊躇している間に、忘れてしまっていました。そのCD(結局、普通のCDだったのですが)を先日GRF邸で聞かせて頂き、想像以上にプロコフィエフとの相性の良さ、フェルツマンの守備範囲の広さにびっくりしました。

バッハ専門と思い込んでいたフェルツマンですが、プロコフィエフ以外にも多くの作曲家の作品を録音していました。中でも、シューベルトは2015年より6枚シリーズのソナタ全集の録音プロジェクトに着手、現在4枚目まで進行中という力の入りようです。このシューベルトも中々聞き応えがあるのです。
(シリーズ第2弾、D960のソナタ、第2楽章は珠玉という言葉では語り尽くせない味わいです)

ですが、今日は、思いがけない組み合わせだったプロコフィエフの魅力の話でもなく、精力的に収録を進めているシューベルトの話でもなく、フェルツマン体験の原点となったバッハを取上げたいと思います。と言いますのも、彼のプロコフィエフやシューベルトを受け止めるには、そのバッハでの原体験が必要だった気がするからなのです。

1952年の旧ソ連時代のモスクワ生まれ、87年からニューヨークに在住しています。ソ連崩壊の4年前ですから、色々な事情があったはず。旧ソ連脱出組みというバック・グラウンドから想像される、超絶技巧で、ちょっと重めで、ちょっと暗めで、だいぶ深刻という演奏を想像されます。が、真逆です。最初に体験し、今でも繰り返し聴いている6つのパルティータは、今の季節、真夏の蒸し暑い盛りに、涼を取ることができる「夏向きバッハ」なのです。
(フェルツマンの原体験、バッハの6つのパルティータ)

先ず印象的なのは、その硬質で落ち着いた音の流れの美しさ、そして暫く聞き込んでいくと、「落ち着いた流れ」ではあっても、常にその表情が変わり続けていて、それを追っているとそこから離れ難くなってしまう、そういう魅力を持つ演奏です。軽やかで煌く美しい音の流れが、様々な表情を見せながら、淡々と連なっていく、まるで冷たい清流の傍らで、水の波紋を眺め、せせらぎに耳を傾けている様です。更に、その描き出す情景は、冷んやりとした雪解けの流ればかりでなく、こんこんと湧き出る泉、岩肌を滴り落ちてくる水滴、煌くような噴水、暗い森のに隠れた小さな滝・・・と、水が様々な姿をまとうのに似て、その表現は、多彩で幅広い空気感を作り出すことのできる、多くの引き出しを持っています。バッハのパルティータは、そういう具象的な情景描写・印象を描いているわけでは当然ありません。古今、色々な作曲家が水の情景をピアノで表現していますが、抽象表現であるはずのこの曲のフェルツマンの演奏を聴いていると、そのどれよりも心の深い所で、一瞬に、その具体的な映像の世界に連れて行ってくれるから不思議です。

このような演奏を成り立たせているフェルツマンのピアノはどういうものか? やはりその音色の透明感とその多様性、そして、その描き出すことの出来る表現の種類の多さではないかと思います。単なる小さな水の流れでも、一瞬でも同じ形の反復ということは無く、常に変化していて観ていても何時までも飽きない、それと同じ様に、彼のピアノは常に小さな変化を見せながら、聴き手の集中を求め、まるで催眠効果を持つように、気が付くと引き込まれている。そして、そこに描き出されている情景は千差万別。でも、それだけでは、重厚な精神性、哲学・宗教を求める人にとっては物足りないかもしれません。その意味でもロシアらしくないです。自分には無理ですが、このまま滝に打たれるように聴き続けると、もしかすると、無我の境地に達するのかもしれません。

このようなフェルツマンの美質が端的に現れているのが、ゴルドベルク変奏曲のこの録音(91年)でしょうか。
(亡命直後の容貌)
ここでは、全ての反復を指定通りに演奏されており、例えばグールドの演奏時間、50分強に対し、フェルツマンは80分。それで冗長になっているかといえば、音の多様性、表現の引き出しの多さを大いに活かして、反復の部分は、バッハのオリジナルに続いて、独自の変奏曲が連なっているかのように仕立てあげています。正統派からすれば異端の演奏といわれそうですが、やはり、その音の美しさと、微妙に変化していく繰り返しの効果が、バッハとして極めて納得性の高い演奏になっていると思えるのです。

こういうバッハを弾くフェルツマンの、ひねくれ者のプロコフィエフがどういうことになるのか、あるいはシューベルトのソナタがどのような美しい姿になるのか、好奇心が刺激されて、思わず手を出してしまったのというのは冒頭の通りですが、それについてはまた別の機会に。

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という日記を書いていると、西日本の豪雨の被害の映像や、タイの洞窟で浸水に閉じ込められた子供達のニュースが飛び込んできました。こんな時に水の美しさを例えにした、暢気な文章なんて不謹慎ではないかとも思いました。水に限らず、自然は人間に様々な顔を見せます。暴虐な顔、優しい顔、楽しく明るい顔、美しい顔。そして、その自然無しに我々の生活が成り立たないのも事実です。そんなことに思いを寄せていたら、房総半島の地震。決して人間の思いのままにならぬということを、つい忘れてしまうのですが、そういう自然とどう向き合っていくのか。フェルツマンの演奏によって思い起こされる様な、人に寄り添ってくれる自然が、出来るだけ多くの人の元にあることを願うばかりです。そして、亡くなられた多くの方々の冥福と、そして被災された方の一日も早い日常生活の回復をお祈りする気持ちを、この音楽とともに捧げたいと思います。

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  1. パグ太郎さん
    バッハやシューベルトの生きた時代には、自然には抗えず受け容れるしか術がないという諦観が有ったのだと思います。

    しかし、産業革命以降の人類は次第に自然は御することが出来ると考え、我国でも河川には堤防を巡らせ、その周囲の元々田圃だった地域の上にも住宅地を開発してきました。

    今回は西日本中心に被害が出てしまいましたが、数年前の鬼怒川堤防決壊の被害をはじめ、今や日本全国どこでも災害が起きうるのだと思います。
    地震にしても先般の大阪北部地震では、拙宅も阪神淡路大震災の揺れにより建物にヒビが入り食器類が割れる被害が出ましたし、災害は人ごとではないと感じています。

    今回の災害に遭われた方々、不幸にしてお亡くなりになられた方々には、只々お見舞いとお悔やみを申し上げるばかりです。

    そんな打ちひしがれ沈んだ心持ちの時に聴く音楽に救われる気がするこの頃ですね。

    by椀方 at2018-07-13 09:22

  2. 椀方さん

    レス有難うございます。お返事遅くなりました。

    最近色んなことで、音楽をどう聴くのかについて考えさせられることが重なってます。深刻な話でもなく、答えがある訳でもないこともわかっていて、そのこと自体を楽しんでいるのですが。

    そういうことの一つが、自然への想いと音楽との関係だったりするのですが、フェルツマン の純粋な音としての美しさに浸っていると、また色々と無駄な考えが回ってしまいました。

    byパグ太郎 at2018-07-14 17:33

  3. パグ太郎さん

    あの東日本大震災の後、しばらくコミュで日記を上げる気力を失ってしまい半年以上お休みしてしまったことがあります。

    でも…

    震災翌日に帰宅し自宅の状況を確認しまたきびすを返すように所沢に向かったのは吉野直子さんのハープリサイタル。迷いはあったけれど中止にはしたくなかったと、吉野直子さんが「震災被災者の無事と一日も早い復興を祈って」始めに演奏したのもバッハ(イタリア協奏曲よりアンダンテ)でした。

    その翌日の日曜日もコンサート。南紫音さんと菊池洋子さんのデュオコンサート。町田の小さなサロンでのコンサートでした。淡々と普段通りの演奏でしたし、60人ばかりの聴衆も穏やかな日だまりの縁側のようにくつろいでいました。アンコールはエルガーの「愛の挨拶」。

    当時、日経新聞の記事で誰かがこんなことを言っていました。

    『各地でイベント自粛が相次ぐが「音楽はある種の人にとってはライフライン。切ってはいけない」。』

    とても共感した…というか、音楽好き(=「ある種の人」?)である私にはそれが実感でした。…そう、どうか音楽という命綱を切らないでください、と。

    そのことを言ったらある人が、音楽は「心の食事」のようなものと言いました。その言葉にもとても共感しました。音楽は日々の生きる糧のようなもの…。たかが娯楽だとか言わないでほしいし、それ以上のものを受け取っていると思っていますし、また、自分からも送り出し届けるような気持ちを持ちたいとも思いました。

    byベルウッド at2018-07-15 01:11

  4. べウッドさん

    レス有難うございます。

    確かに、私もどんな時でも、音楽を聴くことそのものを中断したことはないですね。

    一方で自ら発信することは、もっと能動的な行為でエネルギーが必要なのかもしれません。音楽家に限らず、表現しないではいられないという、根源的欲求を持っている人達はやはり凄いと思います。評価とか環境とかとは無関係に突き進む何かを持っていることは、プロとして続けられる条件の一つかもしれないと思ったりします。それが人に感動を与える力の源だとも。

    byパグ太郎 at2018-07-15 10:53

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