パグ太郎
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クラシック中心に聴いています。オーディオは手段と考えてはいるものの、気がつくと手段の魔力に取り付かれてしまうことも多く、日々修行をしております。

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パグ太郎の部屋
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Phileweb登録後1年、気が付くとスピーカー導入していました(2018/6) 10数年愛用したアンプが逝ってしまったので、久々の機器更新をしました(2017/6)。
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日記

ドビュッシーのピアノ曲のイメージを変えるメルニコフのピアノの響き

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2018年07月19日

ドビュッシー没後100年の今年、色々な新録音が登場して嬉しい悲鳴を上げているのですが、贔屓のピアニスト メルニコフが前奏曲第2巻と『海』を録音してくれました。楽器は、自分のコレクションの中から1885年製のエラールを使用。


先日の日記でラヴェルの『夜のガスパール』を取上げた時に、ドビュッシーはペダルを多用して音を混ぜあわせた響きの音楽であるのに対して、ラヴェルは一音一音を明確に並べてみせるので音色の明度が鮮烈という主旨のことを書きました。

でも、メルニコフのエラールから聞こえてくる音は、そのどちらでもない、まず、そのことに驚かされました。ペダルにより持続する響きの上に、別の音が重なって、これぞドビュッシーという音の世界が作り出されているのは、そのとおりです。でも、音が交じり合って混濁することがなく、交じり合う前の鮮度・明度が保たれている不思議な体験です。

「湿度の高い靄のような音の美しい響き」という表現がドビュッシーのピアノ曲を聴くと良く思い浮かびます。それは、時にはピアノのフレーム全体を振動させるような打撃であったり、それによって生み出される重さであったり、楽器の中で充満する響きであったり、そういう現代の大ホールの音響効果と現代のピアノを前提にした演奏で、その空気感が作られることが多いのです。メルニコフのエラールからは、そういう要素は排除されていて、軽やかで、一つ一つの響きが見通せるよう。こんなドビュッシーは聴いたことがない。そもそも、こういう響きと音色の制御をどのようにやっているのか・・・・。

響きの中の繊細な色彩感覚を重視した同傾向の演奏として、エマールのこの演奏が好きなのですが、これも「靄の中の美しい響き」であるという意味では従来の表現を踏襲していて、メルニコフとは別物です。
これは、生で聴かないと判らない世界かもしれません。3年前の春に来日した時は、上野の石橋メモリアルホール所有の1910年のプレイエルで、前奏曲1巻2巻を全曲演奏したらしいのですが、それは聴いていません。どうだったのでしょう。

そういう分析的な聴き方が出来ていたのは、実は最初の内だけでした。ドビュッシーの響きだと普段思っていたものとは別であるかどうか、なんてことはどうでも良くなってくるくらいの、吸引力です。見慣れた風景が全く違った風に見える、最初はここが違う、ここが変わったと言っているのですが、直ぐにそういうことを忘れて、その景色の中に取り込まれてしまう、そういう感覚です。こういう体験は、演奏のスタイルは別物ですが、以前にも取上げたグルダの演奏する前奏曲集を聴いた時に似ています。演ずるものの世界の魅惑が強すぎて、虜になってしまう。


それを更に感じたのが、ドビュッシー自身が編曲したピアノ連弾版の『海』。

管絃楽曲のピアノ編曲版は、この曲に限らず沢山有って、時々この日記にも登場する好みのジャンルです。私にとって良いなと感じるのは、矛盾するかもしれませんが、オリジナルの管絃楽曲の存在を忘れさせてくれる演奏です。あのオーケストラの多彩な楽器の響き、音色の組み合わせ、大編成の躍動感・・・そういったものを、ピアノではこうやって再現しているのかということを意識させる、それで感心させる演奏は沢山有ります。でも、それは良く出来た模写、つまり複製技術の勝負の様な気がするのです。

好きな演奏は、やはりオリジナル版のことなど綺麗に忘れさせてくれて、目の前の音楽に埋没できる、そういう演奏です。原曲の力が強ければ強いほど、それは難しいのかもしれず、ドビュッシーの『海』の4手ピアノ版で、管弦楽版を忘れる経験をした記憶がありませんでした。また、難しいものに挑戦してという思いで聴き始めたのですが(何せドビュッシー本人が演奏不可能と言い、普通は2台ピアノで演奏されるほどの難曲でもあるのです)、驚きました。

前奏曲集の部分で他の演奏との違いなど気にする余裕もなく、その世界の虜になったと書きましたが、それと同じです。オーケストラがどう鳴っていたかなんて事は意識の外に飛んでしまいました。それ以上に、『海』という曲名、各楽章の標題、そして有名な富嶽三十六景の浮世絵、そういう具体的イメージを全部を忘れさせてくれる、純粋なピアノ曲としての「色とリズムを持った時間」が流れていたのです。

(管弦楽版『海』の楽譜初版(1905年)の表紙画は北斎の「神奈川沖浪裏」の部分借用)

没後100年のこの記念の年は、メルニコフのこの前奏曲2巻と海、プレスラー翁の前奏曲1巻の抜粋を聴くことが出来た年として、記憶に残るような予感がします。

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  1. パグ太郎さん、

    こんばんは。

    メルニコフのドビュッシーはエラールを使用したのですね。
    フランス製ピアノとの相性がいいということなのでしょうか?

    作曲家、ピアニストとピアノの関係は非常に興味深いです。
    ドビュッシー自身はドイツ製のブリュートナーを使用していたとの記述を見たことがありますし、やはりドイツ製のべヒシュタインを褒めていたというのも聞いたことがあるように思います。

    >それは、時にはピアノのフレーム全体を振動させるような打撃であったり、…

    これはスタインウェイのように意図してフレームを鳴らしているピアノでは顕著ですね。(笑)
    ツィマーマンは見事にあのフレームの音を響かせていますからそれを排除したメルニコフの演奏はその対極にあるのかもしれません。
    ぜひ聴いてみたいのですが、もしかすると私の好みとも対極にあるのではないかと思っています。
    ブリュ-トナーも当時のべヒシュタインもフレームを積極的に鳴らすようなピアノではなかったはずなのでドビュッシーの本来の意図はメルニコフの演奏の方なのかもしれませんが…

    モーツァルトでも内田光子のようにスタインウェイの個性を押し殺してひたすらきれいに端正な音だけを出す(個人的見解です)ピアニストもいますし、ファジル・サイみたいにスタインウェイの個性全開で当時のモーツァルトの時代では考えられないバリバリのダイナミックな演奏を展開する奏者もいますのでまさに様々。

    楽器の進化(?)によって作曲家の意図とはある意味で違った表現が生まれていることもあるような気がします。
    それを受け入れるか邪道と決めつけるかは聴き手次第ということになるのでしょうか?

    話は飛びますが、グルダは前奏曲集をベーゼンドルファーで演奏したのでしょうか?
    以前、前奏曲集を生でベーゼンドルファー・インペリアルで聴いたことがあるのですが、私にはちょっと重量感がありすぎるように感じました。もちろん演奏のせいもあるのでしょうが…


    話を戻して…(^^;)
    メルニコフ、まずはどこかで聴いてみたいと思います。

    byK&K at2018-07-21 00:19

  2. パグ太郎さん

    メルニコフがエラールを弾いたドビュッシー前奏曲全曲演奏を聴いてたいへんな衝撃を受けました。

    http://community.phileweb.com/mypage/entry/2408/20150407/46884/


    その時のピアノは仰るように上野学園が所蔵する1910年製のエラールでした。1910年というのはドビュッシーが前奏曲集を作曲した年なんですね。まさに同時代の楽器を使用した演奏に、ドビュッシーが前衛音楽家であることに気がついたのです。

    ドビュッシー以前のロマン派の時代、音楽は有意・有理の音楽で、物語であっったりストーリーや形式、定型を持っていたのですが、ドビュッシーはそれを完全に情景とか感覚の芸術に純化させた。そのことに気づかされたのです。《音の絵》《音のモビール》という分野の開拓者だったとようやく気づいたのでした。いったい自分は今まで何を聴いていたんだろうとさえ思いました。

    またメルニコフについても、あのファウストが相方に選んだピアニストという程度の認識しかなくて、そういうノリでGRFさんをお誘いして上野・石橋メモリアルホールに出かけたのですが、忘れられない演奏会のひとつになりました。

    byベルウッド at2018-07-21 00:24

  3. K&Kさん

    お早うございます。レス有り難うございます。

    今回のピアノの選択は、演奏家との相性よりも作品との相性で決められたのだと思います。より正確には、演奏家が目指す作品の姿との相性でしょうか。と言いますのも、先日お聴き頂いたメルニコフが4種類のピアノでシューベルト、ショパン、リスト、ストラビンスキーを使い分けたCDの通り、メルニコフはアロイスグラーフ、エラール、ベーゼンドルファー、スタンウェイどれも相性良く?弾いていて、曲とピアノの相性に神経を使っていたからです。

    では、時代に即したピアノで演奏することだけが絶対に正しいのかという問題提起については、私はどちらも演奏として感動させてくれるならそれで良しといういい加減派です。モダンピアノのバッハも大好きですから。

    グルダのCDには使用ピアノのクレジットはありませんでした。演奏の印象として思いとは感じませんでした。

    メルニコフのドビュッシー、ピアノの音色、響きという関心ごともありますが、それにも増して音楽として素晴らしいので、是非ご一聴されれることをお勧めします。

    byパグ太郎 at2018-07-21 05:33

  4. ベルウッドさん お早うございます。

    レス有り難うございます。
    ドビュッシー自身は、音楽の抽象性を繰り返し主張しているのですが、彼の作品への表題のつけ方が上手すぎるのが災いして多くの演奏家、聞き手がその表題に寄りかかった接し方をしてしまっているような気がします。でも、絶対音楽で、且つ何の主義主張も載せていない彼の前衛的作品を当時の人々に受け入れさせるには、あの表題は必要悪だったのかも知れません。海の楽譜出版社の、あの表紙絵を選んだマーケティングセンスには脱帽です。

    メルニコフはそういう意味でドビュッシーの本質を見事に体現した演奏ですね。今回、何故2巻だけなのかはわかりませんが、より抽象度の高い2巻を敢えて選択しているのではないかとも思いました。

    プレイエルとエラールはだいぶ性格が違うらしいので、その辺りは実際に生で聴いていれば良かったと、今頃になって思っています。

    byパグ太郎 at2018-07-21 05:52

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