日記
第77話 オーディオ・マニア肯定論
2008年05月28日
第27話の「音楽そっちのけ」で、オーディオ・マニアの是非を考えてみた。
「非」については、第29話に記し、今回は、「是」の部分をまとめてみた。
オーディオ雑誌を読むと、そこには様々な評論家がいる。最初の事は、雑誌の中だけでしか会えないと思っていたが、その内、店で行われる試聴会で、「先生」という、かたちで会えることが分かってきた。そうなると「この評論家って、どういう声をしているのだろう」と興味が出てきて、オーディオよりこの「評論家」の声を聞きたくて、試聴会に行っていた時期があった。菅野先生は以外にも美声?であり、柳沢先生はちょっとガラガラ声か。しかし、この先生、試聴会で曲が流れると、よく席の後ろに行って、音量が適切かチェックしている様子を何度かお見かけしてから、この先生の試聴会に出る度に「愛があるな~」と感心している。三浦先生はその大きな体格のせいか、声のヴォリュームがあり、とても聞きやすい。傅先生は早口だが、この方はいつも試聴に使う曲をリストにまとめて記載してくれるので、とてもありがたい。他にも福田先生や藤岡先生の試聴会に参加してからは、雑誌を読んでいても、試聴会で聞いた声やその様子を思い出すことで、「あの時のように聴いているのかな」と、その姿を想像してしまう。こうやっていろいろな「先生」を制覇していったが、なかなかその声を「試聴」出来なかった先生がいる。その方は石田善之氏だ。ひょっとしたら、もっとやっているのかもしれないが、私は石田氏が出ている試聴会に、まだ一回しか行ったことがない。その最初で最後?に会ったのが、御茶ノ水にあるオーディオユニオンが、現在の新社屋に移転して初めて位の試聴会だから、もう数年前だ。なんの機種の試聴会かは、もうすっかり忘れてしまったが、この時、石田氏が発した言葉は、今でも強烈に印象に残っているので、それを紹介しながら、私が抱いているオーディオの存在価値も記してみたい。その石田氏が発した言葉とは、
「オーディオは、音楽を聴くための道具ではない」
「逆に言うと、音楽は、オーディオから音を出すための道具にすぎない」
という内容だ。これはかなり衝撃的な内容だった。オーディオや音楽の評論、録音、そしてスピーカーの自作と、様々な体験を通して発せれた、この石田氏の言葉に接して、私は少なからずオーディオ機器を購入する際の原動力になっている。
この石田氏の発せられた言葉をよく考えると、これは至極、全うな事だという事に気づく。
逆にいうと、音楽を聴くのであれば、ラジオでも十分感動できる事を、第29話にまとめてみた。
では、オーディオは、何のためにあるのか?
それは、音楽に使われている楽器の音、そのものの存在に価値を見つけ、この音の魅力を掘り下げたものが、オーディオだと思う。
このオーディオが創造する「音」というのは、書道における「字」と、共通していると思う。
字は、他の字と合わさって文字となり、やがて文章という集合体となり、第三者に意味を伝える機能がある。
この相手に伝えるという意味で使われていた文字を、「字」そのものの美しさに注目し、それを書道という、全く違う視点から、その価値を見出し、それを鑑賞レベルに持ち上げたのが書道であろう。
これと同じで、オーディオにおける音とは、この音を、音楽を伝えるといった機能から切り離し、それが本来持っている魅了を引き出したのが、オーディオであろう。
この音の魅力は、更にオーディオのメーカーが持っている固有の響きが加わる事で、更に魅力的になると思う。
ヴァイオリンの音を、ソナス・ファベールの甘美な美音で再生させるか、またはB&Wのように、録音現場の空気感をも克明に表現させるか、それとも全く逆に、マッキントッシュ&タンノイのもたらす、とにかく濃厚で「面」のように迫ってくる中音に、全身を包まれるのか、といった夢想は、オーディオの最も楽しい部分であろう。
これは、書道が文字の造形美を探求しているのと同じに見える。
書道家が、何枚も同じ字を、書いては、捨て、自身が納得するまで、書き続けている姿は、オーディオ・マニアが、機器やアクセサリーを使って、自分が理想としている音を追及しているのと、同じではないだろうか。
という事は、実は、オーディオ・マニアというのは、マニアをバカにしている人達と比べたら、音楽を2倍楽しんでいる事にならないだろうか?
オーディオに凝らなくても音楽は楽しめるといった、ミュージックスタイルのようなスタンスに立っている人たちと比べ、オーディオ・マニアは、音楽の感動と、自分好みに仕立てた音の魅了を味わっているので、マニアは、より音楽を貪欲に楽しんでいる人達に思える。
なので、音楽が聴きたいのなら、オーディオに拘らなくても、ラジオクラスの機器で、十分だと思う。
こらは、文字を書くなら、書道家の技術は必要ない。ワープロで十分であるのと、同じことだと思う。
しかし、ワープロの年賀状と手書きのそれとは、明らかに手書きの年賀状に、感動を覚える。それは、その字に、書き手の気持ちが、字を伝わって、読み手に伝わるためだろう。
これは、ラジオが音楽の感動を伝えることが出来ても、音の魅力を伝えることが出来ないのに似ている。
オーディオ・マニアは、音楽しか聴いていない人よりも、音の魅力という側面からも、音楽を楽しんでいる人達ではないか、というのが、私が抱いているオーディオ・マニア像である。
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こんにちは。オーディオと書道の話、興味深いですね。
個人的には、書道で紙に書かれた字が音楽に相当し、筆や墨汁、
紙がオーディオ機器に当たるものだと思います。
オーディオマニアはハードウェアマニアだと思いますね。
写真でも、カメラというハードウェアが好きな人と
写真そのものが好きな人とは全く違うと思います。
チョートクさんなんかは自称「写真機家」ですが、的を得てます。
私はハード(オーディオ機器)もソフト(音楽)も好きですが
ハードを意識して音楽を聴いている時は、音楽を聴いていません。
反対に、音楽に没頭している間はハードの事は意識にありません。
個人的には「音を聴く」ことと「音楽を聴く」ことは全く
別の行為だと思っています。
オーディオは音楽を聴く目的で発明されましたが、手段そのものが
趣味になることは多々ある事で、趣味に「意味」を求める
必要はあまり無いと思います。
私の父なんかは、カメラやレンズが好きでたくさん集めていますが
撮る写真と言えば「レンガ」ばかりです。
そう、レンズの性能を調べて喜んでるわけです。
写真そのものはあまり撮りません。
そういう本末転倒な楽しみ方をするカメラマニアは実は非常に
多いです。オーディオもそれに共通しますよね。
音楽はオーディオを鳴らすための音源でしかすぎない、そういう
人も大勢います。それはそれで趣味ですから良いと思いますよ。
ただ、音楽マニアとオーディオマニアは全く違うと思います。
小澤征爾の、あの有名なセリフ、あれはオーディオマニアへの
一種の軽蔑の意味が込められた言葉だと思いますが、どうでしょう。
byMagicDragon at2008-05-28 14:39
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最初は手段だったがそれがいずれ目的になるというのはよくあることですね。
そしてその目的(その時点では目的になりえていないのでしょうが)を突き詰めていくと、その枝葉の一つに意味や表現性、個性を見出していくものがあることは、周知の事実であろうと思います。
もちろん本来?の目的(ココでいうなら演奏者かな)の人たちからすれば、愚かな事だという人もあるでしょうが、わたしはそのような趣味もいいんじゃないかなーなんて思います。
書道のたとえの話は非常にわかりやすく、なるほどと思わされました。
私は書道を10数年していました。
大きい紙に気合をこめて文字を書くことは、ものすごい集中力を必要とします。
そして1枚書き終わると結構疲労感を感じます。
最終的に自分が良しと思うものになるまで書き直していくわけですが、終わったころにはヘトヘトになりつつも心地よい疲労感を感じていました。
それは字と向き合うというより、字と共に遊んでいるとか字の助けを得ることで自己を追求していくという行為であったように思います。
これはいわれてみると、オーディオという趣味にも当てはまるものですね。
つまりは・・・私はなるべくしてオーディオにはまったのだなという事が良くわかりました(笑)
by凛吏 at2008-05-30 09:51