日記
パーカッショニストは体を張って… (樋渡希美 打楽器リサイタル)
2021年07月09日
コロナ禍のなか満を持しての登場は、とびきりのフレッシュアーティストそのもの。
体を張った演奏は、打楽器奏者というよりボディ・アーティストというべきか。
樋渡さんは、4歳のころからヤマハ音楽教室に通い、中学の部活で打楽器、高校でマリンバを始め、東京音大に入学するまで教室に通い続けたそうです。親に負担をかけたくないとヤマハの音楽支援制度を利用してドイツ。シュトゥットガルトに留学。まさにヤマハの申し子。
影響を受けた音楽家は、グレン・グールド、高橋悠治をあげる。キャリアだけ見ると音楽がとても好きで音大にまで行ってしまったという普通の女の子という感じもしますが、一気に若い才能が花開いたようなフレッシュで前向きなパフォーマンスには、爽快なまでのサプライズがありました。

前半は、会場の照明を全て落として、舞台袖からの微かな自然音ともいえるようなインプロビゼーションから開始。曲間は、すべて暗転させて、前半プログラムをすべて一気に進めていきます。二曲目のいかにもマリンバソロが終わっても拍手のいとまを与えず再び暗転、三曲目は、意表を突くような百面相やシャウト、トークも交え体中を叩き、摩り、転げ回るようなボディ・パーカッション。四曲目でもマレットを口に咥えたり、弦楽器の弓で擦るやら、ついには銅鑼を素足で蹴るなど、何十種類もの打楽器に囲まれて所狭しと動き回る視覚的要素が満載。
これが45年前に作曲された日本人の作品なのだから、そのことにも驚いてしみますが、打楽器演奏は視覚的、身体運動的要素のアートでもあるということは、もはや古典的思考なのでしょう。
極めつけは、後半最初の「これはボールではない」。コミカルというのかジャグリングのパロディというのか、録音した音に合わせて目に見えないボールを弾ませての大道芸人風のボディ・パフォーマンス。最後に隠し持っていた黄色いボールを高々と上げて見せて満場の拍手喝采を浴びていました。
その後は、マリンバを中心とした共演者とのデュオやアンサンブル。
ドビュッシー「月の光」は、樋渡が上声のヴィヴラフォンを担当。月の冷たくはかないような美しい光芒を描いてとてもロマンチック。ヴィヴラフォンといってもジャズのミルト・ジャクソンでおなじみのような羽を回してヴァイブレートするわけではなく、ピアノと同じようにペダルでダンパーを操作するような響きの豊かなシロフォンという感じです。サステインが短い木質のマリンバの沈み込む低域と金属質のピュアな響きが尾を引く高音とが実に美しく融合していました。
続けての「クープランの墓」では、攻守交代で樋渡がマリンバを担当。ラベルらしいモビリティと静謐さの絶妙の両立を見事に演じていました。このドビュッシーとラベルの編曲版は、この夜のちょっと新奇なコース料理に火照った気分の客席にとっては、かっこうのグラニテになりました。
最後は、マリンバの名曲中の名曲、三木稔の「マリンバ・スピリチュアル」。
NHKの委嘱によって名手・安倍圭子のために1984年に作曲された人気曲です。平岡養一、安倍圭子と、マリンバ王国の日本の系譜を継ぐ証しとして欠かせない演目。特に第三部でのクライマックスでは、鉦や大太鼓などの和楽器を叩きながらの「はっ、おおっ」という掛け声を連発。コロナ禍で来日がかなわなかったドイツ人の仲間がこれをどう演じたかも興味津々でしたが、とにかくこの夜の掉尾を飾るにふさわしい盛り上がりでした。
最後のスピーチでは思わず涙がこみ上げて言葉が続かない樋渡さん。二回も延期を重ねたこのデビューリサイタルにはそういう思いがあふれた、まさに渾身のパフォーマンス。薫風香るフレッシュなコンサートでした。

紀尾井 明日への扉29
樋渡希美(打楽器)
2020年7月8日(木) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階 5列9番)
樋渡希美
(共演)
高瀬真吾
森山拓哉
石田湧次
樋渡希美:トーキングドラム in Stuttgart(インプロヴィゼーション)
イグナトヴィチ=グリンスカ:マリンバのためのトッカータ
グロボカール:?身体(コルポレル)~ボディ・パーカッションのための
福士則夫:グラウンド~ソロ・パーカッションのための(1976)
べニーニョ、エスペレ、ノワイエ:これはボールではない(ソロ・ヴァージョン)
ドビュッシー/樋渡編:月の光
ラヴェル/樋渡編:《クープランの墓》よりプレリュード
三木稔:マリンバ・スピリチュアル op.90?マリンバ独奏と3人の打楽器奏者のための(1984)
(アンコール)
ドビュッシー:「子供の領分」より第1曲「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」