パグ太郎
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クラシック中心に聴いています。オーディオは手段と考えてはいるものの、気がつくと手段の魔力に取り付かれてしまうことも多く、日々修行をしております。

マイルーム

パグ太郎の部屋
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持ち家(戸建) / リビング兼用 / その他 / 16畳~ / 防音あり / スクリーンなし / ~2ch
Phileweb登録後1年、気が付くとスピーカー導入していました(2018/6)。所有製品はHRS130ですが、製品DBに登録がないので、一番近いもので代替しています。 10数年愛用したアン…
所有製品
  • スピーカーシステム
    GERMAN PHYSIKS HRS120 Carbon
  • プリメインアンプ
    OCTAVE V110SE
  • ハードラック
    QUADRASPIRE QAVM
  • RCA/BNCオーディオケーブル
    KIMBER KABLE KS-1020
  • 電源ケーブル

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日記

ガランチャの『薔薇の騎士』オクタビアン、あるいは「男は皆、こうしたもの」について

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2017年11月30日

以前の日記で、『薔薇の騎士』は、心理分析という新技術を用いた『フィガロの結婚』のリマスター版だという主旨のことを書きました。その最後に、お気に入りのメゾソプラノ、エリーナ ガランチャが出演した『薔薇の騎士』のメトロポリタン歌劇場での最新上演が気になるということに触れていたのですが、そのライブ録画が、めでたくリリースされましたので、追っかけファンとしては早速入手してみました。


今回、リリースされたのは、メットの2016-17年のオペラシーズンの最終日(千秋楽?)の公演で、さらに、青年貴族(男性役)オクタビアン役のガランチャと、主役である元帥夫人役のルネ・フレミングの二人が、この日の演奏をもってこの役から引退するというサヨナラ公演でもあったようです。それ以外の役でメトロポリタン オペラの舞台に立つことはあるのだと思いますが、この役の最終ということがイベントとなる程、この劇場での当たり役だったということなんでしょう。メットの女王といってもおかしくないフレミングが舞台に最初に現れると、拍手が自然に起きるのは、愛されている印ですね。

R.シュトラウスの『薔薇の騎士』は、先日取上げたサロメのようなドロドロした世界とは一転して、ハプスブルグ帝国の爛熟期のウィーンの宮廷を舞台に、中年になりかかった元帥侯爵夫人と、その若い恋人である青年貴族の、恋・火遊びが終わりを迎える一日を描いた、華やかで、ちょと憂いを帯びた美しい物語です。モーツァルトの『フィガロの結婚』の後日譚とも言われていて、火遊びにも至らなかった伯爵夫人とケルビーノの関係が更に進展し、『薔薇の騎士』の幕開け冒頭は元帥夫人の寝室で一緒に朝を迎える二人のシーン(今回の演出では寝室から離れて一服するという、先の展開を予兆する妙にリアルなシーンが幕開けでしたが) から始まります。(一服するオクタビアン)

実は、幕開け前の序曲では、二人の朝を迎える前の様子が、オーケストラで超リアルに再現されており、こちらの方がサロメのヴェールの踊りより余程、R指定かと。

通常、二人がベッドの上でいちゃついている言葉のやり取りのなかで、初めて女性に触れたティーンエイジャーの無邪気で、無責任で、自分勝手な、でも憎めない素直な振る舞いと、成熟した女性の大人の落ち着きと、子供をあやすような優しさ、そしてこの関係の行き着く先を予見している一抹の憂いをたたえた美しさとが、ものの見事に表現されています。オーケストラの巧みな表現による心理描写の綾と、それに乗った女声二重唱の色気のある華やかな響かせ方は、R.シュトラウスの真骨頂です。思春期と青年期の境に立っている危うい若者を、ガランチャは何時もの素晴らしい歌声と表情で、見た目も含めて、オクタビアンを演じさせたら、彼に、いや違いました、彼女に勝る歌手は今いないのではと、まあファンならではの当てにならない感想です。一方、フレミングも、ちょっと鼻にかかった、ビブラート過多の独特の発声は、個人的には気にはなりますが、及第点です(シュワルツコップを超える元帥夫人に出会えていないというのは、以前にも書きましたっけ)。

この、後朝の艶めいたシーンの後、色々、どたばたはあるのですが、話の展開を要約しますと、元帥夫人の遠い親戚筋に当たる田舎貴族のオックス男爵が、成り上がり者の実業家の大金持(この演出では軍需産業系の財閥一家)の娘で、親子ほど年の差があるゾフィーを娶ることになって、その婚約の儀式である銀の薔薇の贈呈役(=薔薇の騎士)として、オクタビアンがその任に当たることになります。所が(というか、ご想像の通り)、オクタビアンとゾフィーは恋に落ち、元帥夫人は、娘の財産目当の品性下劣なオックス男爵に対しゾフィーとの結婚を諦めさせ、大人の女として身を引くという、「どうでも良い」話でございます。(互いに一目惚れ)

登場人物も、先ほど書きましたように、オクタビアンは無責任な子供ですし、オックス男爵も鼻持ちならないオヤジでしかありません。また、ゾフィーも金持ちの家で我侭に育てられた世間知らずで、貴族名鑑の何処に自分が連なるかを毎晩夢見て、自分の結婚の本当の意味を考えることすらできません。その父親は、娘婿が自分と同年輩で、娘の持参金にしか関心がなく、出会ったその日から娘の女召使に手を出そうとするような人間であっても、それが娘にどのような人生をもたらすのか考えもしません(いや、それが女の人生と考えているのかもしれません)。(現実を知る箱入り娘)

元帥夫人だけが、唯一、人生と時間の残酷さ、愛情の儚さという、真実の深淵に直面させられていますが、彼女も若いツバメと遊び暮らして人生を浪費してきた人間であることには変りはないのです。こういう、どうしようもない登場人物達の、どうでもいい様な話の、何処からこんな、崇高とも感じられる美しい音楽が出てくるのか、それがこのオペラの最大の謎でもあり、R.シュトラウスという作曲家の才能・魅力でもあります。

このオペラの最大の聴き所は、やはり終幕の、元帥夫人が身を引き、オクタビアンをゾフィーに譲るというシーン。オクタビアンは自分の行為のむごさをやっと自覚し、元帥夫人の名前で呼びかけはするものの、それ以上の言葉をかける術を知りません。ゾフィーは自分の甘い夢とは別に、本当の現実の世界があることに気がつき冷水を浴びせられたような気持ちになっています。その二人の思いの独白の中で、元帥夫人が人生と愛の儚さを歌い上げるという女声三重唱、そして、元帥夫人が退いた後の、だれにも止めることのできない若い二人の愛の二重唱。(もう誰にも止められないお二人)

ここまで残酷なまでに美しい音楽を聴いたことはないかもしれません。人生の真実に直面したゾフィーの、それまでの能天気で軽薄な台詞を口にしていた人とは思えない「まるで神聖な教会にいるような敬虔な気持ち」という台詞は、聴き手が、この音楽から感じることをそのまま表しているようです。

先日取上げたサロメと異なり、この作品は、登場人物やテーマの多義性を、演出によって露にするという必要を全く感じさせません。人間の愛すべき愚かさと、生きること愛することの儚さ、悲しみが、戯曲としても、人物造形としても、音楽としてもストレートに表現されていて、下手な解釈を加えて演出することが意味を成さない、そういう稀有な作品です。

もちろん、各登場人物の複雑な心情のどこに光を当てるかというレベルでの解釈・演出は必要です。オクタビアンも、オックス男爵も、そして登場する事のない元帥侯爵も恐らく、自分の欲望にのみに忠実で身勝手な存在だという点では全く共通だということを、元帥夫人は気づきます。彼女の最後の台詞は、「オクタビアンはこの娘と結婚し、他の男が望むような普通の幸福を手に入れるだろう。すべては神の思し召しのままに」ですが、その真意は、「彼は決してこの娘を幸せにすることはないだろう、若い自分と元帥もそうであったように」「でも、かつての私にそれを説いても判らなかった様に、今幸福の絶頂にある二人はそのままにしておいて上げましょう」であることは明白です。そして、娘の父親の「若い人はみなこうしたものでしょうか?」という問いに、その全ての思いを託して「はい、そうですね」と応えています(薔薇の騎士はフィガロの後日譚でもありますが、もう一つのモーツァルトの名作「コジ・ファン・トッテ=女は皆、こうしたもの」への返歌であるのかもしれません)。

この人間性に対する諦観や、若い世代の華やかな思い出への惜別、そしてそれを支えていた文化への郷愁、その全ての感情をくすぐるのが、R.シュトラウスの音楽の魔力であり、「この、どうしようもない登場人物たちの、どうでも良いお話」が、とんでもない輝きを持つ秘密なのかもしれません。

そして、この演出では、最後の最後の背景スクリーンに、近代的な軍隊が登場します。元帥夫人がオクタビアンの世代、さらにその下の世代に代々引き継がれていくものと信じていた、この華やかな世界が、娘の実家の軍需産業が引き起こした世界大戦に飲み込みまれ、ハプスブルグ帝国そのものも含め、跡形もなく失われてしまうことを暗示して終わっています。

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レス一覧

  1. 素晴らしい紹介ありがとうございます。
    フレミングの引退公演が 薔薇の騎士は 意味深ですね。ガランチャ良さそうですね。映像はカラヤンもクライバーも持っているのですが私も シャワルツコップが好みです。
    その映像を見ていないのですが、個人的にはエンディングは甘い夢で終わって欲しいように思います。 その後のところは演出家の解釈より、 観客の想像力にお任せするのが 好みですが、、、、

    byKE2 at2017-12-01 08:13

  2. KE2さん

    レス有難うございます。

    フレミングは引退ではなく、役を絞っていて元帥夫人はこれで最後ということのようです。

    エンディングは全然、甘くなくて、辛口でした。日記では触れませんでしたが、元帥夫人も「このまま、お婆ちゃんになるなんて有り得ない」という示唆があったります。全般的に演出家が細かい所まで語りすぎかもしれませんね。

    最近観た映像でエンディングが甘く美しかったのは2014年のザルツブルグ(ヴェルザー=メスト指揮 クプファー演出)ですね。背景の霧にけむるプラーター公園の木立の映像が印象的。モイツァ・エルトマンのゾフィーが可憐で、最後の二重唱はまるで「パッ・パッ・パッ」を歌っているような純粋で微笑ましい様子でした。

    byパグ太郎 at2017-12-01 09:19

  3. パグ太郎さん

    子供の頃に、ザルツブルク祝祭大劇場こけら落としでのカラヤン版の映画公開を観たというお話しを以前にしましたが、子供心にも、カラヤンのかっこよさとともに、シュワルツコップの元帥夫人の終幕の場面が強烈な印象でした。確かにあれを上回る元帥夫人はいまだに現れていませんね。それまで散々聴いてきたフルトヴェングラーのバイロイトの第九のソプラノがその人だと知ったのはその時でした。

    あのときの最後に黒人の少年が落とし物のハンカチを拾いに戻る場面とその精妙なサウンドも目と耳に焼き付いています。もうひとつの記憶は、エーデルマンのオックス男爵です。イヤな奴だけどどかか憎めず、そのウィンナワルツの鼻歌が奇妙なまでに板についている。この憎まれ役がいなければこのオペラの面白さ楽しさは半減してしまいます。ああいう演技もなかなか得られませんね。そのエーデルマンが、これまたバイロイトの第九のバスを務めているというわけです。

    フレミングはまだまだ若々しい。あの可愛らしさがちょっと元帥夫人のイメージから微妙にずれています。ニューヨーク子に人気があるということと適役ということは違うのでしょう。ルサルカなんかはまだまだやってほしいですね。

    byベルウッド at2017-12-05 01:00

  4. ベルウッドさん

    レス有難うございます。

    カラヤン・シュワルツコップ・エーデルマンの薔薇の騎士は、ウィーンの貴族文化というものを感覚的に知っている最後の世代が創り出した、一つの頂点なのかもしれません。シュワルツコップもエーデルマンも酸いも甘いも噛み分けるという風情の大人の演技だったと思います。そういう「大人」の粋そのものも、永遠に失われてしまったものとして、憧れ・郷愁の対象として、作品と綺麗に重なり合っている所が素晴らしいです。そういう意味では、カラーより白黒映画の方がぴったりなのかもしれませんね。

    >ニューヨーク子に人気があるということと適役ということは違う

    はい、美女と野獣をジャン・コクトーの1946年の映画で見るか、ディズニーアニメで見るか位のギャップがあります。

    byパグ太郎 at2017-12-05 12:53